瀬戸内寂聴さんが数ヶ月前、『テレビってヤツは』という番組で、こうおっしゃっていました。
『最近のひとはね、ケチでね、お寺にお金を出さないのよ。だから寺と僧侶は大変なのよ。』
そうか、そういう事情があったのか、と思いました。
あることを思い出したのです。
随分むかしつき合っていたひと、そう、わたしの最初のボーイフレンドは寺の一人息子で、坊主になりました。
今も、寺の和尚をしています。
彼は、音楽をやるひとでもあったのですが、将来の家のことを考え、寺の敷地内で幼稚園をやろうか、と言っていました。
当時のわたしはまだ幼く「このひとはなにを言っているんだろうか・・」と、理解できませんでした。
寺の坊主というのは、生きること、死ぬこと、倫理、世の中の平和、条理不条理、浄不浄、罪と罰・・こういうことを考えて生きるものであって、お経をあげるのが仕事じゃないの?と、単純に思ったのでした。
しかし、彼が憂いていたように、いまの世の中の人は、目に見えないもの、形にならないもの、ひとに見栄をはることができないもの、メディアに流れないもの、権力に認められないもの、そういうものにはお金を出さないようになっています。
なぜ、これが言いきれるか、というと、芸術にお金を出すひとが極端に少ないことを、わたしは身をもって知っているからです。
芸術は、仏と同じくらい分りにくいものです。
日本のひとたちは、フィギュアスケートがなぜ好きなんだろう、ダンスには注意を払わないのに・・と疑問に思ったのですが、それは、フィギュアは数字になるから分りやすいけれど、ダンスは数値ではかれないからだろう、そして、ダンスは国や企業が奨励しないからだろう、と思い至りました。
日本には、素晴らしいモダンダンスのダンサーたちがいます。
NYに留学してくる日本人のモダンダンスのダンサーたちには、実力、感性とも素晴らしい人が何人もいました。
けれど、多くが経済的理由と日本には活動の場所が極端に少ないということで、世に認められることもなく消えて行きました。
あれほど肉体にも精神にもよく、人類の叡智のつまっているアフリカンダンスが浸透しにくい原因のひとつも、ここにあるとわたしは考えています。
最近教育テレビでたまたま観て大好きになった和尚さん、南直哉さんのブログを先日読んでいたら、同じようなことが書かれてありました。
寺を維持するのも、僧侶でいることも大変で、多くが副業をこなしながら続けているか、僧侶を続けることに難儀な思いをしている、と。
わたしのファーストボーイフレンドも、寺の息子として、先行きを案じていたのです。
そして、現代のこの国でお金が集まらないのは、芸術だけではなく、宗教思想も同じで、形なきものには、考えなくてはならないものには、ひとびとが関心を払わなくなってしまっているのだ、と気付いたのでした。
そして、ものの価値とはなんだろう。
値段とはなんだろう、と考えたのです。
ひとは、値段でその価値を決めます。
また、価値あると思うものに値段をつけます。
しかし、簡単に決められるものでしょうか。
厳しい修行で知られる禅の寺、永平寺で20年という長い間を生き、教典を初め、古今東西のあらゆる本を読んで勉強し、生きることと死ぬことについて真剣に考え抜き、世を憂い、ひとのために生きようとするひとりの僧侶に与えられる「正当な値段」というのは、なんなのでしょうか。
車には一台何百万円も払うのに、化粧品やブランド服にお金をつぎ込むのに、生きることの根本的意味を追求する言葉や芸術にはお金=エネルギ−を使わない、というのは、ひとのいまのこころのありかたを象徴している、と感じています。
今日、赤坂で南直哉さんの講義*があるそうですので、聞きに行くつもりです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・芸術家
*豊川稲荷東京別院にて 午後6時半より
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