図書館で、五木寛之さんと、玄侑宗久さんの対談本を借りてきて読んでいます。中に輪廻転生の話しが書かれていて興味深く読んでいます。わたしは、仏教を勉強したわけではありません。ただ、ひとに考え方が仏教的だ、とか、あなたは道元だ、とか言われたり、お遍路に行きたくなって行ったり、アメリカの仏教関係の本を読んだり、好きなお坊さんがいると彼の説教を聞きに行くくらいのことです。後は、幼い頃から祖父に育てられていて、祖父は、子供の頃から寺で問答をしていたようなひとなので、知らない間に影響を受けていたのかもしれません。けれど、あなたは仏教徒かと問われれば、否と応えるしかないほど、知識はありません。
輪廻のことは、過去の記憶があるだけです。そして、実は、どう考えても未来の記憶もあるのです。それは、体験から知ることであり、世の中のひとがどうとらえているか、とか、仏教的な、または学術的な解釈はありません。ただ、このごろ、説教をたまに聞きに行ったり、こんな本を読んでいると、世の中のひとは、永遠の死が怖くて輪廻を信じたいと思っているだけで、実際には過去も未来も、記憶にはない、というのが仏教の大筋のようです。わたしは、逆です。過記憶があるせいか、もう、生まれ変わりたくはないと思っています。別に、過去の記憶が嫌なものだった、とかそういうことではなく、たまんないじゃないですか、この肉体の中で永々と生きるなんて・・・ですから今のところ、わたしは仏教の思想には当てはまらないな、と思っています。
このところ、ずっと気になっていた人がいました。手紙を書こうか。水星が後退しているし・・・とずっと思っていて、勇気も、そして、時間もありませんでした。わたしと同じ名前のひとで、とても近しかったひとです。そして、事情があって疎遠になっていました。彼のことが、ずっと気になっていました。調子が良くないことを知っていたからです。亡くなったそうです。先ほど、連絡がありました。
彼は、多くの人がそうであるように、時代にもまれて生きた人でした。第二次世界大戦前にヨーロッパで日本人外交官の息子として生まれ、戦争が勃発したときに日本に帰国し、イギリス人とのハーフだったことから敵国人として日本人に虐められ、戦後はアメリカの大学に行き、帰国後は華々しいエリート人生を送りました。けれど、彼の中にはいつも、幼い頃からこの国になじめなかった苦しみが見えました。「僕はハーフではない。ダブルだ。」と常々言っていました。日本人は、日本人でないひとを徹底的に差別するところがあり、ほかの血が混じっていると「半分」と蔑み、蔑んでいることにすら気づきません。マーガリンの「ハーフ&ハーフ」と同じくらいの軽い気持ちでいるのです。けれど、言われる方は傷つくのです。いつも、お前は「半分」と言われているのですから。戦時中はもっと苦しかっただろうと思います。歩いているだけで暴力を受けたりしたそうです。孤独な人でした。
彼だけではなく、彼の家族みんながこの陰をずっとどこかにひきずっていました。わたしも、長い間、ひととは違う人生を送ってきたおかげで、孤独に苦しみました。だから、彼の苦しみはすぐに分かりました。けれど、最近思います。みんな、多かれ少なかれ、どこかに孤独をもっていて、誰かを、またはみんなを理解したい、そしてされたい、と思っている、と。けれど、できない。人間が人間であるかぎり、この孤独からは逃れることはできないのだ、と。そう思うと、なぜ、ひとが長生きして、もう一度ひととして生まれたいと思うのか、不思議でならないのです。ただ、ひとつだけ思うことがあります。わたしと同じ名前だった彼に、あんなに可愛がってもらった彼に、できるならもう一度会いたい。そして、ずっと思っていたことを伝えたい。わかってもらいたいことがある。大好きだったんだ。忘れてなんかいなかった。そして、手を取り合いたい。・・・でも、このような後悔がひとの魂を肉体によみがえらせてしまうのかも知れない。
ずっと、この1月あまり、彼のことを考えていました。そして、心の中で、彼への手紙を書いていました。でも、書かなかった・・・。忙しさを理由にして逃げていたのかもしれません。それとも、予感だったのかもしれません。明日から出張で福岡に行くので今日もとても忙しいのですが、形にならなかったラブレターが彼に届きますよう、彼の魂が楽になっていますよう、彼の大好きだったGrand Ma に笑顔で会えていますよう、これから、せめて通夜に行くつもりでいます。
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