飛行場に1時間半も早くに着いてしまった。
午前中にアポがあり、それを済ませて来たら早く着いたのだ。
家にやり残したことが沢山あるのに、ここで1時間30分も・・・と、正義感がイライラし始めた。
おばさんは、キッチンにある、冷蔵庫に入れ忘れた野菜と果物が腐る・・と悔やんでいる。
午前中のアポは午後に移行すればよかった、アポの場所から羽田がこんなに近いんだったら、午後にしていても午後3時の飛行機の出発時間には間に合っていたはず。
そうすれば、図書館にもゆけたし、携帯会社にも行かなくちゃならなかったし、ご近所にもらった野菜も、生協で買った美味しい柿も落ち着いて冷蔵庫に入れていただろう・・・あんなに慌てて朝早くでなかったら全部できたはず、そして、ここで無為に過ごすこともなかった・・・と、言う。
今思えば、確かに、そうだっただろう。
しかし、わたしは、これまで羽田を使ったことがあまりない。
たいてい成田から国際便に乗るばかりで、羽田はよく知らない。
だいたい、羽田にソフトバンクのカウンターがないことさえ知らなかった。(成田にはある)
早めに用心してきたかったのだ。
そう言って慰めている。
そして、起こったことをクヨクヨ悩むよりは、「今」なにができるか考えようよ。
そうそう、これは経験として次に生かそうよ、と芸術家と女王とオヤジが言う。
羽田がこんなに近いなんて知らなかったのだから・・・次は、もっと効率よくできるでしょう。
そうなんだけどね、でも・・・と、おばさんは、来週戻ってきたらきっとゆるゆるになっているだろうキッチンカウンターの柿を、いつまでも思い浮かべている。
頭の中はけんけんがくがく。
どうも、やることが多すぎ、いろいろなことが起こりすぎ、落ち着かない。
キャラたちは、互いにああでもないこうでもないと言い合う。
このごろ思う。
けんけんがくがく、は、わたしの中のキャラたちだけではない。
世の中ひっくり返っていて、加速度的に時空が歪んでいる。
先日、自転車で久しぶりに近所を走った。
ジムに行ったり、図書館に行ったり、用事をしたのだ。
ところが、たった10分も走っていないのに「間一髪」という瞬間が数えたら5回以上あった。
ほとんど周りを見ずに走っている自転車や車が、ものすごく多いのだ。
信号を完全に無視していきなり曲がり角から出てくる車。
右は見るけれど左は見ずに発進しようとして、あやうくわたしとぶつかりそうになった車
「止まれ」の記号も無視してわたしに突進してきた自転車。
歩道を猛スピードで走って、いきなり前触れもなく目の前で曲がった自転車。
歩道からわたしの前を突然横切って走り出てきた歩行者。
・・・とにかく、いろいろ。
何度、急ブレーキを踏んだことか。
その人たちは、みな表情が共通していた。
固まっていたのだ。
ほぼ無表情。
周りが全く見えていない、または見てない。
怖かった。
それにしても・・・こんな町だったっけ?
と、不審に思った。
とにかく前をちゃんと見て、五感を使いながら周りを感じながら走らなきゃ、命がいくつあっても足りない・・・そう思って走った。
それは、その日だけではなく、翌日もそうだった。
みんな、おかしい。
なんだかわからないけれど、おかしい。
「平穏なひと」というのがほとんど見当たらない。
It is very difficult to find a person who is 'content'.
占星術的にも、今は、変化の時だと言われている。
大変化があちこちで起こっていて、ひとびとのこころは焦っているのだろう。
わたしも、ある意味同じである。
焦っているというより、やることが多すぎて落ち着かない。
仕事をしながら、自分の情熱を追求する、というのは並大抵のことではない。
日々の生活だってしなくてはならない。
顔を洗ったり、洗濯したり・・
生活がなければ、仕事も情熱も成り立たないのだ。
その上、世の中はひっくり返っているから、次から次にいろいろなことが起こって、身の上に降りかかる。
昨日も忙しく走り回っていたら、電話がかかってきて「とーちゃん」(と、呼んでいた。実は、義理の父だった。)が死んだので、今夜通夜だ、と突然言われた。
とるものもとりあえず、着替えて霊場に向かった。
泣きすぎて頭ががんがんするほど泣いた。
そして、戻ってきて、作業の続きをやった。
寝る前に今日からの出張のために荷造りをしたが、どの服を入れたか、今朝家を出たとき記憶にもなかった。
朝、目覚めたとき、悲しみで胸がうずいた。
そうしてこれから4日間、濃度の濃い仕事の日々が始まる。
息をつく暇もない。
本当は家でのんびりする時間が週の半分は欲しい。
でも、そうは、現実としてはゆかない。
その中で思うことがある。
今日のことも同じだけれど、この時代を生きる身の処し方というのがあるのではないか、と。
穏やかでいる方法があるのではないか、と。
どんな瞬間でも可能なはずなのだ。
穏やかでいること。
To be content.
ある、アメリカ人仏教家の本に書かれていた。
「たとえ、ナチにガス室に入れられる瞬間でも、ひとは、こころもちしだいで穏やかでいることはできる。」
そのことについて、しばらく書いてみようかと思う。
福岡行きの旅についても書きながら。
きっと、今のように、ふと時間が空いたときに・・・。
・・・・
写真上:羽田空港
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