greenさんという方から、NYに『旅』する、のブログにコメントをいただきました。お返事として書かせていただきましたが、みなさんにも読んでいただきたく、ここにコピーしてアップします。よろしかったら、greenさんのコメントと併せてお読みください。
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こんにちは、greenさん、
率直で丁寧なコメントありがとうございます。読ませていただきました。おっしゃっていることの意味、分ります。わたしも、このブログがとても長いのもあるように、これをアップするのは考慮しました。どこまで書いたらいいのか、そして、どのように表現したらいいのか。少し、英語的な表現になっていないか。特に目の「見えない人が・・」という辺りはこれは英語ではそれほど珍しい表現でもなく、同じようなことわざさもいろいろな文化にあるのですが(もしかしたら、日本にもあるかも知れません、わたしが知らないだけで。あとで、誰かに聞いてみます。)、今の日本では反応するひとがいるかも知れないな、というのは少し想像していました。
わたしも人生は旅だと思っています。どこかの国に行かなくても、ちょっと違う道を歩いただけでも違う景色がみえたりします。この頃は、やることが多くて、頭が煮詰まりがちなので、近所のまだ通ったことのない小道などを歩いてみるようにしています。つい2〜3日前も、美しい新緑の柿の木があるのを見つけて感動しました。それに、同じ道でも、違う角度から見るとまるで違う場所に見えることに、改めて驚きを感じました。お陰で頭がほぐれました。旅っていうのは、それまでの固定観念や固まったこころや頭をほぐすためにもあると思います。そうそう、この頃は家に居ながらにして、ブログにも書けないほどいろいろな旅をしています。しかも、ものすごいスピードで・・(笑)いつか内容を書きたいのですが、旅をしている最中っていうのは、なかなか時間もなくて書けなかったりするものです。なんにしろ、greenさんのおっしゃる、人生は旅、は、わたしの標語でもあり大賛成です。
ただ、これを書いたのは、わたしの旅だけが楽しい、と言いたかったのではありません。日本人で旅をしているひとが皆無だとも言っているわけではありません。それに、確かにひとそれぞれの楽しみ方があるでしょう。グアムで着飾っていた人たちも、それはそれで楽しいのだとわたしにも分ります。けれど、グアムに行って、グアムのひとびとと全く交流がなく、その土地の事情もなにも関知せずに、お金を落として自分の楽しみだけを追求するひとびとに、植民地時代からの差別意識と内向的な偏狭さを感じ、哀しみと憤りを感じるのです。
グアムでは、とうていサクラとは種類も違う、どう見てもトロピカルで派手なオレンジ色の花の咲く大きな樹を「Sakura」と呼びます。日本の統治時代のなごりなのです。そう日本人が呼ばせたのです。グアムは日本人の帝国主義の犠牲になった国のひとつです。彼らを野蛮と呼び、三流国と呼び、日本が一番なのだから日本人になれ!と押し付けたのです。樹の名前まで彼らの言葉を禁じたのです。かと言って、いまに生きるわたしたちがそのことをどうしようもありません。わたしもアメリカ帝国資本主義の象徴であるヒルトンホテルに滞在していたわけですし。けれど、「今」を変えることはできます。せめてその土地の歴史、ひとびとの生活、思い、などに注意を払い、自分たちが、贅沢に着飾って楽しくしていられるのは、どのようなひとたちのお陰であるか、ということくらいには目を向け、同じような過去の過ちはおかさないよう、そして、どの国のひととも上下の関係なく、人間としてつき合えたらいいのではないか、というのがわたしの願いであり思いなのです。
日本だけにいると、残念ながら、どうしても客観的にものが見えなくなると感じます。「日本は差別主義者の国だ」というのが、多くの外での定評であるし、英語で書かれている日本の歴史の本を読んでも、はっきりと「世界でも階級制度がもっとも厳しい国のひとつであり、その影響がいまだに残っている社会」と書かれています。新宿の紀伊国屋の洋書コーナーにその本は置かれているのですが、それは外国の学者がそういっているからではなく、わたしも常日頃からそう感じるのです。しかし、島国のせいか、鎖国が長かったせいか、海洋文化が途絶えて久しいせいか(例えば、グアムなどは島国ですが、船であちこちに行くという海洋文化が古来からあり、外の世界に非常に敏感だとひとびとと話していて感じました。)偏った見方と、外に対する憧れと同時に、なにか恐れのようなものを持っていると感じるのです。そこには、ある日本人の評論家が言っていたように、過去に植民地時代という後ろ暗い歴史があり、侵略をしていたから、仕返しをされるのではないか、という妄想意識があるだろう、というのも一理あるかも知れません。(アメリカ人にはそいういうの、あります)北朝鮮に対する過敏とまで思える反応は、それに由来しているのでしょう。関東大震災のときに、在日朝鮮人を数多く虐殺しているのと同じように。同時に、白人社会へのコンプレックスと反感もあるため、その心理は複雑でますます殻に閉じこもりがちになるのかも知れません。
そのような歴史的、社会学的背景だけではなく、今のこの国には、自分の思っていることを率直に言いにくい雰囲気があります。ほとんどのひとが、いいたいことを言いません。なのできっと、これを書いたら生理的に反応するひともいるだろう、と思いました。言わないことに慣れているし、言われ慣れてもいないので、言う人に対して、反感を持つだろう。greenさんのように「つまらない」と思ったり、あるいはムカつく人もいるだろう、と。けれど、感受性の話しも、すべて、わたしの正直な気持です。感受性は磨かないとひからびるばかりです。それを正直に言えない空気さえ、この国にはあります。それを詩でハッキリと言い切った、茨木のり子さんという現代詩人がいらっしゃいますが、彼女の人生も孤独なものだったと聞きます。また、多くのひとが情報をもとに妄想の世界に生きており、目の前のひととも話しができないという妙な社会現象が旅の仕方にも出ていると、感じます。これは、率直な感想です。長い時間をかけて経験、観察した結果のわたしの意見です。
greenさんには、まったく気分を害していません。しかし、本当の本当に、上に書いたこと(注:ブログのこと)は、学生時代のアルバイトではありますが、日本の最大手旅行会社のNY支店でツアーガイドとして何百人もの日本人を案内し、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカに住み、そしてカリブ、カナダ、アフリカなどに旅をして、いろいろなひとと会い、日本を含めたいろいろな土地で経験したことをもとに書いているのです。
目の前に美しい夕焼けがあるというのに、殻のなかに閉じこもって、まったくなにも「経験」しないひとが沢山います。もちろん、そのようなひとは日本人だけではありませんが、特に日本人の旅行者に多いというのが、わたしの感想です。そして、海外に行って「やっぱり、自分の国が一番」というのを、他の国のひとが言うのを、わたしは実は、すでに長くなってきた人生、いろいろなひとに会った人生の中で、一度も「ない」のです。これは、わたしの経験からゆくと日本人特有の現象なのです。
ひとによって経験の意味づけは違ってきますが、ここに書いたひとに言われた言葉もすべて、それこそ妄想ではなく、現実に起こったことなのです。
ただ、これを、わたしのツアーのこととまとめて一緒に書いているので、「他の人は全然だめだけど、あたしはイケる」とだけにしか聞こえない危険性をはらんでいるのも承知していました。多分、greenさんよりももっと気を悪くしたひともいると思います。しかし、その奥を想像していただけることを願っていました。また、NYが日本よりいい、とか、NYの良さを感じられない人は感受性のひからびているひとだ、と言いたいのではありません。どこに行こうと、目の前にある事象を感じることができないひとは、感受性がひからびている可能性がある、と書いたまでのことで、わたしは今でもそう信じています。感受性は、「まわりで起こるすべての事象をこころと体で受け取り、感じるこころとその能力」です。これは、いろいろな意味で、努力しないとどうしてもひからびてしまうものです。そして旅は、そのこころがないと、近所の散歩であろうと、何十時間と空を飛んで出掛けた異国の土地であろうとも、旅をしたことにはならない、というのがわたしの意見です。
なぜその感受性を磨くことが大切だとわたしが思うかについては、ここではあまりにも長くなりますので申せませんが、これまで数年にかけて書いてきた内容で理解していただけることをこころから望みます。
greenさん、アフリカンダンスしてなくっても、一緒に行きましょう NYは、ダンスの街だけではありません。いっぱいいっぱい楽しいこと、ありますよ。美味しいものも、沢山の芸術も。冒険するのも、外から自分の国を見るって言うのもいいものです。わたしの個性豊かな友人たちも紹介します。それに・・ダンスしてなくっても、クラスの見学はできます。見ているだけで、もう、それは楽しいものです。気付いたら踊り出しちゃってて、そのうちハマるかも知れません
良い連休を過ごしてください。greenさんの今日の旅が素敵なものでありますように。
makoutaより
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