『歩いて思う』を書くとき思いました。きっとこれを書いたら嫌がるひとが多いだろうな〜。予想通り、以後アクセス数が極端に落ちました(笑)。でも、それはそれだと思っています。わたしにとって、あそこに書いていることは事実以上でも以下でもないことです。そして、正直であることは精神衛生上大切なだけでなく、わたしにとっては誠実な生き方でもあります。
ただ、読み続けてくれているひとたちに、誤解して欲しくないことが1つあります。それは、わたしが単に戦争に加担したひとたちを責めたいわけではないということです。もしわたしが同時代に生きていたら、戦争反対を表明できたかどうかわかりません。随分恐ろしい状況だったはずです。周りがみんな天皇は神だと信じていて、戦争に賛成していて、反対すると己の命だけでなく家族の幸福も危うかったのです。そんな状況で戦争に反対したら・・・想像しただけで背筋が冷たくなます。
本当に言いたいのは、正直に生きることはわたしにだけではなくみんなにとって大切なんじゃないか、ということです。誰でも、自分にウソをつき闇を隠していきると、そのウソと闇がどんどん広がってそのひとを呑み込んでしまいます。わたしは、自分自身の経験からも、周りを見ていても、現実としてそれを知っています。そして、帝国主義と侵略戦争という闇とウソを内に秘めた日本は、いま荒廃の一途を辿っていると感じます。祖国としてそれを見るのはわたしにとっては忍びないものであり、苦しんでいる周りの友人知人を見るのは耐え難いものがあります。
わたしは最近、南直哉(みなみじきさい)さんという禅のお坊さんの話しを聞いたり本を読んだりしていますが、実は、彼がわたしの悩みを救ってくれるというよりは、わたしがこれまで理解できなかった日本のひとたちの悩みをとても明確に解き明かし、彼なりの答えを提示してくれると感じるからです。そして、わたし自身の輪郭がハッキリしてくるような気がするからです。
これまでの自分自身の経験と直哉さんのお話を聞いていて、わたしの中で明確になったことがひとつあります。それは、日本のひとたちは「聖人コンプレックス」を持っているのではないか、ということです。みんな、自分にとても高い理想と、かなり非現実的なイメージを抱いているのではないか、ということです。ほぼ妄想に近いようなものです。
愛されたい、認められたい、と多くのひとが思っているようです。そして、極端なひとは精神を病んだりそれで犯罪にまで走ります。根底に「自分はひとに褒められる人、良い人」でありたいという願望が強いからではないか、と思うのです。または、社会全体が聖人を求めるというか・・・。
けれど、人間なんて短所が長所であったり、長所が短所であったりします。行動力のあるひとは気が短かったり、忍耐力のあるひとは頑固でもあります。また、ときによって気分も変わりますし、状況によってもいろいろな面が出てきたりします。そう、有機物であり生き物であるわたしたちは、どこを切っても金太郎飴のように紋切り型であることは不可能ですし、時の流れとともに変化もすれば、ひととひとは組み合わせによって受け止め方も生まれるエネルギーも変わってきます。短気なひとでも上手くやって行ける人もいれば、そうでなもないひともいます。最初の奥さんとは上手くゆかなかったけれど、二度目の奥さんとは上手く行った、なんてざらにあることです。誰から見ても聖人というのもありえない話しです。
ところが、どうもわたしの印象では、万人にとって「いいひと」「モテるひと」「愛される人」願望がとっても強いのが日本だと感じるのです。けれどわたしは思うのです。そんなのありえないから、いいじゃない、ありのままで・・・。
日本人は侵略戦争をしました。それは、確かに多くのひとを苦しめ、ひとの道として外れたことでした。他国の人々を残虐な形で殺したり苦しめ搾取しただけでなく、同胞も苦しめました。天皇は神だ、とまるで馬鹿げた話しを信じてしまいました。それは、事実であり、現実です。そして、あまり認めたくない過去でもあります。
けれど、人間なんだから、失敗もバカなこともするではないですか。大切なのは、自分の闇や失敗をきちんと認め、迷惑をかけた相手には謝罪し、反省し、誠意を尽くして同じ過ちを繰り返さないようにすることではないでしょうか。だからといって、人間以下になったのではなく、愚かであることをただ認めるだけの話しだとわたしは思うのです。人間がそんなにエラい、と思うと苦しむのは人間だと思います。わたしは、人間ほど愚かな生き物はこの地球上にはいない、と常々思っています。けれど、どうも多くのひとがそうは思っていないようです。
わたしはそこが怖いのです。みんな、なんでそうエラくなったり、聖人になりたがるんだろう、って。いつだったか、なにかで思い悩んでいて、電車に乗っているときもぼ〜〜〜っとしてしまいました。目の前におばあさんが立っていたのですがまったく気付きませんでした。普段、年寄りには席を譲るのですが、なにも目に入っていなかったのです。ところが、斜め前に座っていた30代とおぼしき男性が、おばあさんに声をかけて席を譲ってあげました。わたしは、その時初めておばあさんの存在に気付きました。
そこまでは良かったのです。ところがこの男性、わたしの顔を覗き込むようにして非難の目を向けたのです。何度も何度もわたしを見て、すぐ横に立ってわたしが降りるまでずっとこちらにサインを送っていました。ビックリしました。自分がなにかひとのためになることをして満足するのではなく、誰かに認めてもらいたい、そして、自分のやっていることをひとがやらないと責める、というふうなのですから。彼のやったことは、おばあさんへの愛と思いやりではなく、自分がエラい人間であることを誇示するための行為だったのです。現にわたしのことをずっと気にしていて、おばあさんのことを彼は一度もかえりみなかったのですから。わたしは批判的なエネルギ−にまず傷付き、次に、なんて屈折したひとのいることだ、と、心底驚きました。
でも、日本の多くの人がそう彼と違いない、とだんだん気付きました。なにかすると「これだけやった!」とだれかに認めて欲しくて仕方のないふうをします。そして、それは相手を非難する形でも現れますし、認めてもらえないといじけるひともいます。最近も、なにか仕事でトラブルがあった友人が「認めてもらえていないようで苦しい」と言っていました。
このようなひとびとのことが、ずっと理解できませんでした。でも今、思うのです。きっと聖人コンプレックスが大きいのだろう、と。人間が神になれる、と思い込む性質があるくらいですから、人間がすごい存在だ、と思っているのに違いないのだろう、と。だから、そこに近づくためにもの凄い努力をするし、(不可能にのぞんでいるのだから必ず失敗するのですが)失敗すると落ち込み、コンプレックスを抱くのではないだろうか。ねたみや中傷やいじめや自殺や鬱や妙な犯罪が多いのはそのせいが大きいのではないだろうか。いまの日本は乱世だ,と言っている人たちがいますが、わたしは、戦乱の世だと思います。みんな、理想の自分と争っているのです。闘いに破れた人は、自分を破壊するか、もしくは正当化するために外に敵を見いだすしかないのではないでしょうか。
わたしが日本人が怖いのは、人間に完璧と神を求めるあまり、ひとへの、そしてまずなにより自分への優しさと愛がが欠けていると感じるからです。。そしてそれは、天皇という一人の人間が神であると信じて疑わなかった軍国主義の60年前とそう変わらないのではないか、と思われるのです。
人生は笑って過ごすのが一番だ、とわたしは思います。もちろん悩むときも苦しむときもカフカの世界に陥るときもあります。けれど、そんな自分のことも少なくとも自分は受け入れてやるしかありません。父親が戦争で女たちを強姦したかも知れません。おじいさんが、中国人を残忍な形で何人も殺したかも知れません。母親が食べ物を争ってひとにいじわるをしたかも知れません。でも、人間というのは、追い詰められるとそういうこともしてしまう悲しい存在なのです。それを認め、そこから精一杯誠実に生きるしかないのではないでしょうか。なるべくそうならないように、追い詰めないようにするのが大切なのではないでしょうか。自分に「完璧」を求めるよりも、不完全でもそのままの姿をまず認める。愛は、そこから始まる。そう思います。
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