わたしは、死ぬときのことをよく考えます。いつ、どこで、どんな死に方をするのだろう。子供のころから思っていました。そして、死ぬときは安らかに、そして、静かに死にたい、と。でも、そうなるかどうか・・・そのときにならないと分りません。
オーストラリアの原住民には、自分の足でちゃんと歩けなくなったら、自分で食料を得ることができなくなったら、原野に出て、岩の上に座り、一切の食べ物と水分を断ち、空を見つめて死んで行くひとたちがいるそうです。アメリカにも有名なカップルがいて、自給自足でいきていたのですが、年老いた夫のほうが先に弱り、「ボクはもう自力で生きることができないようになったから、死にます。」と言って、飲まず喰わずで、静かにベッドに横たわって死んで行ったひとがいます。傍で、妻はそれを見守ったのだそうです。
言葉だと簡単ですが、ものすごく苦しいはずです。水分を一切とらないと1週間くらいで死ぬそうですが、それにしても長い1週間でしょう。それに、なんと言っても、こころの準備が大変でしょう。人生で最大の「さようなら」なのですから。アメリカのカップルの夫は妻が看取ったのでひとりきりではありませんが(妻は5年後に交通事故で即死したそうです。)、オーストラリアの原住民においては、ひとりきりで死んで行くのです。
彼らには、自然や宇宙と繋がった死生観があったのだろう、と想像します。ですから、孤独ではなかったのかも知れません。けれど、自然や宇宙観などの一切のものから切り離されて、宗教観さえももたず、ひとの間だけで、しかもそのひとの繋がりさえも希薄になった世の中で生きているわたしたちは、死を受け入れるのが非常に下手になっていると感じます。わたしは、いまでも子供のように、眠りにつくのが怖いときがあります。起きている状態から、意識のない状態へとはいってゆく、闇が降りてくるその一瞬が恐ろしいのです。あぁ、と聞こえないほど小さなため息をついて眠りに落ちることもあります。
この頃、やることが多くててんてこ舞いです。夜はくたくたになって倒れ込むように眠ることもあります。けれど、自分が必ず死ぬこと。いつか、この「日常」から離れること。それを忘れないように、ときどき自分に言い聞かせます。でないと、どうしても生きることを忘れて、ただ「過ごす」ようになる気がするからです。時には、単に逃げ回っているだけになるような気がするからです。そう、すべての死=さようなら、から。傷付きやすい心から。大切なものから。そして、忙しいという状態に中毒になり、少しずつ神経を麻痺させ、死んだまま生きて行くような気がするからです。そうして、死ぬ瞬間になって、自分が生きていなかったことを知りそうだからです。
だからこの頃は、夜眠る前の時間を大切にし、一日を振り返り明日の計画をたて、身のまわりを整理し、瞑想をしたり、灯りを落として静かな時間を過ごしたり、良い映画を観たりするようにしています。きっと、日々の眠りへの準備の繰り返しが、死への準備となるような、そんな気がするのです。そして、死を思いつづけることで初めて、生きれるような気がするのです。
拝啓
初めてコメント致します
京都でアフリカンダンスのレッスンが受けられないかな〰?
と思って こちらに行き着きました
行き着いてみてビックリ!
今、色々と考えたり感じていたりしていたことが
ここに言葉で表現されていたからです
沢山のことを書かれていらっしゃるので
これから時間をかけて読み進んで行きたいと
思っているところです
毎日へこたれたりしながらも
他を憎まずに
学ぶ姿勢を貫こうと努力しているので
ここに導かれたのかも知れません
敬具
投稿情報: ことぶき | 2009年6 月27日 12:21