新しい職場で働き始めたと言いましたが、この職場は、ある役者さんの事務所で、仕事場としてはとても理解のある、わたしには楽なところです。先日書いたように、確かに英文書をNYの弁護士に送ったりもしていますが、それも役者さんが出演する予定の映画の撮影期間のことについて。丸の内のお金を扱うオフィスで、専門用語の飛び交う小難しい無味乾燥した契約書を書いている訳ではありません。
この事務所は午後出勤も許してくれ、労働時間も短く、途中で食事まで出してくれるのです。しかも、奥に稽古場があるので、疲れたらそこでストレッチもできる(勝手にわたしが考案してやってるんですけどね・・・笑)。実際にわたしは長い間同じ姿勢で、しかも、座り心地のよくない椅子に座っていると、体がダメになるのです。だから、ストレッチをしよう!と思いついたのです。奥に稽古場があるじゃない・・・、と。そして、この職場にはそれを許してくれる空気があるのです。そりゃ、仕事自体はどこでも同じで、楽しい仕事ばかりではありませんが、全体に柔軟で自由な空気があり、わたしには心地よいところです。
しかし、難点もあります。それは、通勤時間が長いこと。片道1時間以上かかるのです。わたしは東北東京の果てにいますが、この事務所は、南西東京の果て、二子玉川にあるのです。思い切り反対側です。それで、このことで「遠いのよね〜。通勤時間1時間以上なのよ。」と先週のダンスクラスのあと、周りのひとに不満を言ったら、あるダンスの後輩が言いました。「いいじゃん、わたしなんか1時間半だよ。それを毎日やってんだから。1時間くらい短いわよ。」う〜ん、とわたしは返す言葉を失いました。
これは、よく起こることなのです。ほかの不幸を引き合いにして不幸を不幸としない、というやりかたです。このことに気づかされたのは、わたしが9歳のとき。ナチスに無惨に殺されたユダヤ人少女、アンネ・フランクの日記小説「アンネの日記」を読んだときのことです。この本は、母から初めて、自分の好きな本を本屋に行って買ってきなさい、と言われてお金をもらって自分で選んだ本です。それまでは、両親や親族が選んで買った本か、家にあった本を読んでいました。生まれて初めて自分で選んで買う本・・・わたしは橋を渡り、町の中心部までひとりでゆき、ドキドキしながら本屋さんに入っていろいろな本をみたあと、この本にしたのを覚えています。理由はよく覚えていませんが、これが良かったのです。本棚のどこのあたりにあったかも、そのときどんな服を着ていたかも、帰りに川に太陽が反射して美しかったのもよく覚えています。秋の午後でした。戻ると母は「好い本を選んだわね」と笑顔でほめてくれました。
この本はわたしに多くの衝撃をもたらしましたが(例えば、わたしとそう年端の変わらない女の子が恋をしてキスをするなど・・笑)、その中でも印象深かったのが、あるくだりです。アンネ一家は、ナチスの目を逃れて知り合いの家の屋根裏に隠れて生活していますが、アンネは外に出ることも、学校に行くことも、友達に会うことも自由にできません。そして、いつもナチスの目と死と隣り合わせに狭い屋根裏部屋で食べ物にも不自由しながら生きています。まだ13歳くらいの感受性の強いアンネにとっては非常に辛いことであり、ある日お母さんに、辛い気持ちを打ち明けるのです。するとお母さんは、「アフリカには、わたしたちよりももっと恵まれないひとたちがいるのだから我慢しなさい」と言って、彼女を慰め、諌めようとするのです。
そこでアンネは日記に書くのです。ひとの不幸と比べて、わたしよりもっと不幸なひとがいるからといって、自分の不幸が帳消しになるものだろうか・・・そんなはずはない。お母さんはおかしい。
わたしは、この一説にこころを強くうたれました。本当にそうだ、と思ったからです。しかし、世の中の多くの人が、このアンネのお母さんの立場をとります。そして、不幸を不幸といったり、苦しいことを苦しいと言ったり、悲しいときに悲しいと言うのを避けます。そうしたら、自分が崩壊すると思っているのかも知れません。しかし、その態度は不幸をそのままにしておくだけでなく、もっと不幸を呼ぶとわたしは思うのです。
例えば、上にも書いたように、わたしは長い間同じ姿勢で作りのよくない椅子に座っていると、体がおかしくなります。痛くなって、がちがちになり、息もできなくなるのです。それで、オフィスワークは長い間避けてきました。周りのひとたちは、それはわたしがダンスをする人間だからだろう、と言うのです。けれど、そんなはずはない。人間の体の作りは、みんな同じなのです。そう思って、事務所のほかの女の子たちに聞きました。「あなたの体はリラックスしてる?」すると「そうなんです、マッサージしてもらいにゆくと、いったいあなたはなにをしてこんな固い体になるの?って聞かれるほど固まっちゃってます。」と返事がきました。
ダンスを教えていても、オフィスで働いている人たちの体は、すぐにわかります。みんな同じなのです。固まっていて、反応が鈍くなっています。誰だって、同じ姿勢で良くない椅子に座っていれば、そうなるのです。違いは、それをどう捉え、どう対処するかということです。
この事務所の労働条件はわたしにとって良いものです。働いているひとたちも、社長も、監督も、みんな好きです。だからといって、わたしは、自分の体がガチガチになることも、通勤時間が長いこともそれで帳消しになるとは思えません。また、誰かほかのひとより恵まれているからと言って、帳消しになるとも思えないのです。実際に、体は痛いのですから・・・もし、恵まれているからと思って我慢したら、またはなかったことのようにしたら、わたしは練習場でひとりで1時間ごとに5分のストレッチをすることは、思いつかなかったでしょう。そして体は、1〜2ヶ月でぼろぼろになっていることでしょう。なにがしかの病気や、風邪やインフルエンザにかかっていることでしょう。または、仕事を辞めてしまうかもしれません。
人間は、自分にとってなにが幸福でなにが不幸か、どこかではっきりと知っていると言われています。そしてそれは、ひとによってそれぞれ形が違うだけです。共通のものもありますが、それは病気、死、くらいでしょう。しかしそこにも極端な例があります。以前、病院でリハビリをしていたとき、よく会うおじいさんが座骨神経通で通院していました。彼は、寝ても起きても歩いても座っても、とにかく痛い神経痛に苦しんでおり「この年まで生きてきて最後にこれなら、さっさと死んだ方がましだ」と言いました。わたしは、そうだろう、と思ったので「そうでしょうねぇ」と返事をしました。おじいさんは、ものすごくそれで救われたそうです。みんな周りは病院側も含めて「そんなこと言うもんじゃない」と言うからだそうです。生きていることが絶対的に幸福と定義されれば、おじいさんの不幸は不幸でなくなってしまうのです。でも、おじいさんは実際に辛かったのです。反対に、今度は病院ではないのですが、ある知り合いで、片脚を完全に切断して失っているひとがいました。そのひととなにかの機会にそのおじいさんの話をしたら、「脚があるだけましだ」とすぐに言い放ちました。
どちらが不幸でしょうか?どちらも不幸なのです。不幸の改善は、まず、不幸の状態をきちんと把握して認識することからしか始まりません。わたしは、未だにアンネは偉大だったと思っています。たった13歳でそれを見抜き、きちんと記したのですから。彼女は、幼くして、人間の狂気によって殺されましたが、彼女の遺した言葉を忘れずに、そして、彼女が生きることのできなかった時間を、他人の不幸と比べて感じる幸福ではなく、または、他人の認める幸福を追求するのでもなく、わたし自身の魂の知る幸福を追求しながら生きてゆきたい。そう思うのです。
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写真上:事務所に半分居候している態度の悪い猫。この猫に買ったエサを与えている事務所のこころのひろさと、この猫の態度の悪さをそのまま日記に書いて提出した(笑)
写真右上:昨夜出された夕食。みんな本番で出払ったり、休みだったりして事務所にはわたしともうひとりの女性しかおらず、前日の残り物と、彼女が作ってくれた一品とみそ汁だったけれど、十分美味しかった。おかげさまで、家に帰って食事をする必要もなく、銭湯に直行して固まった体をほぐすことができました。ありがたいことです。
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