アフリカンダンスはひとことで言うと伝統芸能ですが、いろいろな形があります。
まず、部族によってリズムもステップも違います。
次に、どのような場面で演奏されるかによって内容が違ってきます。
例えば、マリンケ族とウォロフ族では、どちらにも成人の儀式や豊穣の祝いの儀式の音楽と舞踊があります。
けれど、部族間では使う楽器も違いますし、演奏法もリズムも歌もすべて違います。
これは、伝統的に部族間で言葉や習慣が違っていたことを表します。
次に、これらを踏まえた上で、大きくふたつに分けることができます。
ひとつは、舞台用に近代化されたもので、もうひとつは伝統的なものです。
わたしが踊っているのは、舞台用の近代化されたものです。
アフリカはご存知の方も多いと思いますが、ヨーロッパが大航海時代を迎えたと時を変えず、ヨーロッパ各国に植民地化されました。
西アフリカの多くの国は、フランス領となりました。
独立を果たしたのは、植民地化されて数百年たったのちの1950年代からでした。
ようやっと独立を果たしたとき、アフリカの国々は多くの問題を抱えていました。
そのひとつは、アイデンティティ。
もうひとつは、部族間をまとめること、でした。
アフリカには多くの部族が住んでいて、それぞれの文化を持っていました。
ギニアだけでも60以上の部族が住んでいると言われています。
部族間では言語もまったく違います。
それが「国」という新しい概念のもとにまとまってゆくのは大変なことです。
しかも、この「国」はヨーロッパ人が地図上に線を引いて決めたものでしたので、もともと現地のひとたちには「ギニア人」とか、「セネガル人」という意識はなかったのです。
これは、百年くらい前の日本と同じです。
日本のひとたちも、自分は「日本人」という意識はなく、「肥後」の人間だとか、「越前」の人間だ、とみんな昔は思っていたのです。
もっとさかのぼれば、それさえもなかったのです。
ギニアの人々も、スス族とか、フラ族というふうに自分を思っていました。
日本の場合は対戦国や植民地化する他国を見つけることによって、国内の統一意識と国民意識を高めていったのですが、アフリカの場合はとても平和的に、音楽と踊りを利用したのでした。
ギニアがヨーロッパから独立したのは、1950年代でした。
アフリカでは早いほうでした。
そして、当時の大統領が決めたのです。
国中からダンスと音楽の名手を集めて舞踊団を作ろう。
そうして、いろいろな部族の踊りと音楽を、いろいろな部族のひとたちを集めてやり、国の意識を高めよう。
音楽と踊りでひとつになろう。
国中のひとびとがそれを見て「わたしたちはギニアの人間だ。みんなでひとつだ。」と意識するだろう。
そして、国の外にも「これがギニアだ」と知らせるためにも。
同じようにセネガルとガーナの大統領も考え、3つの国は話し合い、この政策をすすめたのでした。
才能が国中から集められ、国の運営する舞踊団が作られたのでした。
昨年、惜しくも亡くなられたモハメッド・キモコ・サノ氏は若い頃から名の通った踊り手で、国立舞踊団設立のため森林地方から首都に呼び寄せられ、舞踊団の設立から深く関わった伝説の人物であり、ディレクターのひとりだったのです。
日本でも有名なママディ・ケイタ氏も、幼少時に首都コナクリー市に集められたひとりで、サノ氏の指導の元、一流プレーヤーとして育っていった人です。
ユスフ・クンバッサ氏は、年代的に下りますが、子供のころにコンペティションを勝ち抜き、国の代表をする年少舞踊団の一員として、世界中を大統領とともに演奏旅行してまわり、後に国立バレエの踊り手となった方です。
こうして国の隅々から、踊りと音楽の名手が集められ、新しい民族舞踊と音楽の形が始まったのです。
そう、「ひとに見せる」舞台用の舞踊と音楽が始まったのです。
ギニアもセネガルも、もともと伝統舞踊と音楽は、日本の民族舞踊のように輪になって踊ったり、神さまに祈るために踊ったり、あるいは農耕作業を進めるために歌ったり踊ったりしたものでした。
けれど舞台でひとに理解してもらうには、動きに変化をつけなくてはなりません。
舞台用にするために、サノ氏を筆頭にした指導のもと、舞踊と音楽は変化されました。
もともと「内側」からの表現だったものを、「外を意識する」表現へと変わって行ったのです。
そして、アフリカ舞踊は、儀式用のものと、舞台用のものと大きく二つに分かれることとなったのです。
それでも、初代のひとたちは、元の形を知っていたので、舞台はかなり原型に近いものがあったようです。
いつだったか、コナクリー市の文化センターで1950年代後半から60年代初頭の、国立舞踊団のドキュメンタリー映画を見ましたが、それは、すごいものでした。
舞台から、村や部族のひとたちの匂いと、土ぼこりが感じられるようなものでした。
一緒に見ていたギニアの年配の方々は拍手しながら、泣いていました。
今、ギニアの舞台用ダンス/音楽はものすごいスピードで変化しています。
私設の舞踊団が増え、伝統を知らない若者たちが形だけを真似、そして西側の国のスタイルも取り入れたりしながら急激に変化させて踊っているからです。
これは、90年から西側の外国資本と文化的影響が一気に入り始めた(西側諸国に鎖国していたのを解いた)ことに端を発していて、ひとびとの意識と生活スタイルが急速に変化していることによると思います。
また、国の財政が追い詰められているため、そして大統領が替わったため、国立舞踊団の予算が低くなり、若手の養成に力が注がれていないためです。
伝統を知りながら、舞台を理解するひとたちがどんどん亡くなり、数が少なくなっているという現状もあります。
一方、伝統の踊りはそれでもなんとか保たれているようです。
数年前にギニアに行ったとき、いろいろな儀式に立ち会いましたが、そこではゆるやかに、昔ながらの踊りを踊っている一般のひとびとがいました。
成人の踊り、婚姻の踊り、名付けの儀式の踊り・・・。
村々や、市井の一般の生活の中では、流々と伝統舞踊と音楽が受継がれていることでしょう。
そして、それを祈っています。
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わたしは、国立舞踊団の出身アーティストたちを先生としていますので、わたしのスタイルは伝統と舞台様式を兼ね合わせた国立舞踊団の系列です。
村の儀式の踊りでもなく、若いひとたちのストリート系のダンスでもありません。
どこの国の伝統芸能も同じですが、西アフリカの伝統芸能は、アフリカの人類の歴史が長い分だけ、そして営々と苦難も乗り越えて生き残っているからこそ、特に複雑で長い歴史を持っています。
先生によって、スタイルも、派も違うと思いますので、その先生がどのような修行をし、どのような活動をしてきたのかお聞きになると、自分がなにをやっているか明確になって良いとわたしは思いますし、踊りや音楽をよりよく理解するためにも大切だと思います。
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