サソリ座の満月が通り過ぎ、またやってくる。わたしは、自分の記憶について書こうと思う。これから書いて行くことは、すべて実際にわたしに起こったことである。
そう、わたしの生まれてから最初の記憶は約5000年前だ。その他にも記憶があるが、沢山いろいろあって混乱するし、また、時間は一方方向だけに流れているだけではないようだから、未来や他の星の記憶も含めると、一体どれが最初でどれが最後なのかも分らない。とりあえず、地球の今の人間が信じている時間の流れの中でゆくと、一番古いものからにする。5000年前が最初の記憶である。
6〜7才くらいのときに夢を見た。広いところに大きな階段がある。一段が数メートルもある、普通には登ることもできない、大きな大きな階段である。ピラミッドのようだが、4方に階段はなく、舞台の上にあるような、ただ、階段がば〜ん!とあるのだ。白い石でできていて、階段はただ天に向ってそびえ立っており、階段の上にはなにもない。そう、本当にただ、階段があるだけである。わたしはその全長数十メートルはある階段を、ふわふわ上がったり下がったりしている。自分の姿は見えない。ただ、気持ちがよい。そして、階段から向こうを見ると、集落がある。自分の集落だ。その集落を見ながら、とても安心したような、懐かしいような、幸せな気持ちになる。
ただ、それだけの夢である。しかし、その幸せな気持ちと階段を上がったり降りたりゆっくりしている感覚は強烈に体に残った。それ以来、階段を見ると、ふわふわ飛ぶ感覚を取り戻したくなった。10才くらいのとき、ある劇場で、高いところから飛ぶようにして落ちたことがある。上から落ちてきたわたしに、周りはびっくりして、一瞬気を失ったわたしを取り囲んだが、わたしは平気だった。それよりも「あの感覚」が戻ってきたようで嬉しかった。小学校にも大きな段々があった。それをいつも見つめていた。飛んで降りていた。階段を見ると、どこでも不思議な気持ちになった。
小さな町の小さな小学校にいた小さなわたしは、20年後には大きな国の大きな町に住んでいた。その町から、ある用事でニューメキシコに行った。名前はメキシコだが、ニューという単語が示している通り、アメリカである。なんでもニューがつくと、アメリカかどこかイギリス人が侵略して作った新しい国の名前だとおもったほうがいい。イギリス人というのは短絡的に名前を着ける。ニューデリも、ニューヨークもそうだ。新しいヨーク地方がニューヨークである。ちなみに、ヨークはイギリスの地方である。ま、それは良いとして・・・。
ニューメキシコに用事ででかけたが、ニューヨークの友だちに言われた。「XX遺跡に行ってらっしゃいよ。素晴らしいわよ。」
わたしは遺跡とか文化遺産とかが好きではない。見てまわるだけで面倒な気分になる。子どもの時からそうだ。それには理由があるのだが、おいおい機会があったら説明する。しかし、この時はなぜかこころが動いた。この友人が信頼できる友人であったこともあるが、なんとなく「行ってみようかな・・」と思ったのだ。用事を済ませた後、ニューメキシコの州都、アルバカーキ−からレンタカーで随分な時間をかけてその遺跡まで行った。一晩か二晩かかった記憶がある。途中でテントを張って寝ながら、延々と映画にでてくるような荒野を走った。原住民たちがいた。
とうとう遺跡に着いた。日本で考えるようなきれいに整備されたようなところではなく、道の途中には牛がわんさかいて通行できなくなったり、でこぼこの道で車が壊れるかと思ったくらいだ。やっと辿り着いてみたら、それは広い遺跡で、歩いたら一日以上かかりそうなところだった。しかし時間だけはあったので、ゆっくり歩いてまわった。その中でのことである。
わたしが6才か7才のときに夢で見た、その光景がそこにあった。全く、ひとつの狂いもなく同じだった。いきなり階段が目の前に現れ、その向こうに集落があった。ひとつだけ違ったのは、わたしがその巨大な階段を上がったり下がったりしていなかったことだけだ。
言葉が出なかった。原野にこつ然と現れた階段を見上げ、その向こうの集落を見た。「存在する」とはそれこそ夢にも思わなかったのだ。誰が、「正夢」だと思うだろうか。原野にただ階段がある、という事実だけでも非現実的なのだから。しかも、夢を見たのは、わたしは小学校に上がったばかりの頃だ。子どもだったわたしが、こんな光景が実際に存在するなんて、知る由もなかった。
説明文の書かれたブレートを読んだ。「約5000年前の集落とその遺跡」と書かれてあった。気付いたら涙が出ていた。 'I'm home.'「わたしは戻ってきた」と本能的に知った。
・・・つづく
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