高知県の海沿いの山にあるお寺から里へ降りる坂道の途中で、大学を卒業したばかりで就職する前に自分探しをしたくて、四国を歩いている、という男の子と一緒になった。そこで、旅の中で出会った人々の話しになった。80才でも歩いていたおじいさんがいた、とか、ずっと宿が一緒になるおじさんがいるとか、そんな話しを互いにしながら、わたしは、途中で出会ったカナダ人のお遍路の話しをし、彼らが言葉も分らずに、時にはとても不安になったり、怖い思いをすると言っていた話しをした。すると彼は心底驚いた顔で言った。
「え?白人でも怖いなんて思うんですか?」
その反応に今度はこっちがビックリした。
「え・・?彼らも人間だから・・」と返事をした。
「へ〜、そうなんだ。怖く思うのは僕たちだけかと思ってた。」と、感動していた。
へ〜・・そんな風に思うんだ・・、と、逆にわたしは妙に新鮮に感じ、まだ幼さの残る彼の横顔をしげしげと見た。人種が違ったり言葉が通じなかったりすると、人は結構簡単に相手のイメージを作り上げるものなのだな〜、と思った。
しかし、今朝なぜか、ふと、自分がまだ子どもだったり、もっと若かった頃、この彼と同じように、外の世界に触れて驚いたことが沢山あったな〜と思い出した。
学生のころ、台湾と香港に留学していた時期があったが、その時、驚いたことが沢山あったが、その中でも、中国人もポルノを見る、ということを知って、ものすごく驚いたことがあった。なんだか分らないけれど、わたしにとって中国人は、人間を超越した存在だったのだ。多分、共産主義とか、孔子とか、古い文化とか、いろいろ自分のなかにあって、彼らをどこか仙人のように思っていたところがあるのだろう。エロイ写真を街角で見て、え〜〜〜〜っと驚いた自分を今でもありありと思い出す(笑)
それから、夫婦喧嘩を見た時もビックリした。激しい喧嘩ではなかったけれど、子どもが生まれたばかりの若い夫婦が家事の分担のことで、ちょっと険悪なムードになっていたのだ。苛立った奥さんが、「ちょっとあんたもお皿くらい洗ってよ!」と子どもを寝かしつけながら怒っていて、彼のほうが、しゅんっと肩を落としていたのだ。へ〜、中国人も夫婦喧嘩するんだ〜、と妙に感動したわたしは、上の青年と同じような感じだった。
それに、あまりにもどっぷりとアメリカ生活に浸かってしまっていたせいで、中国での驚きほど、鮮明には思い出せないけれど、確かに、わたしも、日本からアメリカに行った当初、白人社会の生活の中で、日々、あ〜この人たちも泣いたり笑ったりするんだな、と彼らの人間としての生活に触れて、新鮮に感じていたのをうる覚えだが覚えている。
人間って、なぜだか、人種や国が違ったら、違うものだと思うし、ほんの一握りの情報で、他の人を判断してしまうところがある。例えば、アメリカは経済的、政治的、文化的にも現代では強い国だから、戦争もしかけるし、映画やテレビでは、いつも明るくて前向きなイメージがどちらかというと強い。すると、つい、アメリカ人はみんな強くて、怖がることなんかなくて、いつも前向きだ、と思ったりしてしまう。そして、自分たちとはとても違う人間に思えたりする。・・でも、欲望や恐れというのは、人間は共通して持っている。人類みな同じ、とか、みな兄弟とか言うけれど、あちこちの国に行くたびに、本当にそうだな、と思うのだ。
その一方で、人間というのはひとりひとり全然違うのだ、ということもある。
昨夜、ゆったりとした食事を、数人の人とした。我が家の小さな庭でロウソクを灯しながら、食事をし、環境問題について、恋愛観について、いろいろ話しをした。結局、世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな考え方があり、生活の意識がある、ということになった。恋愛観ひとつをとっても、みな、それぞれの考え方と嗜好があった。全員、日本人だった。
人間には、二層の意識があるようである。根本的な、生命に関わるレベルでの意識と、生活レベルにおける意識。その両方は密接に繋がりながら、それでいて、別個に成立しているところもある。
要するに、人類は、生きる/死ぬ、というところでは、共通の意識があるが、生活するなかで培われる意識というのは、それぞれ違う、ということだ。幸福になりたい、なるべく苦痛のない死を迎えたい、というのは、人類共通の根本的な思いであり、願いであると思う。そして、そこから生まれる欲望や煩悩の形というのは、そう大差はないように見受ける。けれど、使う言語や、食べる食べ物や、つき合う人々や、宗教観念など、生活環境によって培われる意識というのは、その人の持って生まれた性質と併せて、違ってくるものであり、この両者を混同すると危ういことになる。しかし、その認識と識別ができるようになれば、本当の意味で、相互理解ができるようになるのではないか・・・。
そんなことを、考えながら目覚めた今朝であった。
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