数年前「あなたはブレない人なんですね・・」とある人に言われた。初めて聞いた日本語だったので「それ、なに?」と聞いたら、自分を信じて、揺れない人のことだ、と言われた。あなたみたいな人に憧れる、と。冗談じゃない。わたしは、いつも揺れっぱなしだ。と反論した。そして同時に、なぜ、ブレない人がそんなにいいんだろう、と疑問に思った。ブレない人なんて、わたしには、頑固モノ、としか感じられなかった。けれど、この頃、少し意味が分って来た。
先日、本棚を整理していて(この話題多すぎ?笑)名刺のファイルが出て来た。NYに住んでいたときのものだった。最近は名刺の整理なんてしないから、ファイルなんてないが、以前はちゃんと作っていたようだ。最初のページを見て、驚いた。6年くらいしか経っていないのに、そこにあった名刺の人々の半分以上が、もうそこに書かれた情報とは違う状態になっていたのだ。住所が変わった人、職業が変わった人、そして死んでしまった人・・・。
世の中はものすごい勢いで変化している。先月、NYに戻った時も思った。もともとNYは変化の多い町だけれど、この頃それが加速度的になっているようだ。あちこちで「再開発」が行われており、昔からあった店やライブハウスはことごとくなくなっており、全く違う様相になっている地域もあった。わたしが昔住んでいたエリアも、ここは、違う国だろうか、というくらい変わっていた。多くのアーティストが以前は住んでいたが、今は、小金を持ったビジネスマンたちが住み、オシャレはカフェやブティックが軒並み建って、ファッショナブルになっていた。なんか、街全体が妙にピカピカしていて、ちょっと気持ちが落ち着かなかった。
東京はそこまでの変化はないけれど、世情が恐ろしい勢いで変化している。しかも、どっちに向って変化しているかも分らない。ガソリン代が上がったり下がったりするだけではない。今日も、後期高齢者医療保険制度の廃止が野党側から決定された。しかし、国民は、本当はどうなるか、さっぱり分らないでいる。本当に廃止になるのか。それとも、与党側と野党側の勢力争いに利用されているだけで、結局また最終的には、生活の現状は無視されて立法化されてしまうのか。それに、これから一生懸命年金を払っても、少子化/高齢化社会のこの状態で、果たして将来見返りは本当にあるのか・・それさえ分らない。住所だって変わりまくる。わたしは自分が育った実家の住所を知らない。近年の市町村の合併で地方の多くは住所が変わったからだ。我が実家もその例に漏れなかった。
もともと人の名前や住所を覚えないわたしは、面倒なので昔の住所のまま宅急便を送ったりして、セブンのお姉さんを困らせている。「あの・・・こんな住所、ないんですけど・・」「あ〜、向こうに着けば分るから大丈夫です」と平気な顔で通してしまうわたしのことを、世間の人はブレない人、などと呼ぶのかも知れないけれど(笑)・・こんなところは生粋の田舎人であるだけである。田舎では、法律よりも人である。住所が変わろうと変わるまいと、錦町5丁目のわたしの実家はそのままなのだ。ちゃんと昔の住所で届くのだ。(実際に問題なく届いた。)
しかし、こう、世の中いろいろ変わったのでは、ブレない人になりたい、と思うんだろう、とわたしはこの頃思う。なにを信じたらいいのか分らない。どっちに向って生きているのかも分らない。まわりに、本当にこれが理想だよな〜と思える人なんていない。幸福のかたちも見えない。未来にひかりを見いだせない。そんなブレまくりの世の中だから、人は不安になるものである。だから、きっとブレのない液晶画面みたいなくっきり鮮やかな幸福の絵の描ける人になりたいと思うのだろう。
それにしても、ブレない人になりたい、と世間の人が言う意味は分ったが、その感覚にいまだに違和感を覚える。これだけ揺れている世の中にいて、その人だけ動かないなんて、あり得えないと思う。それに、暗いところで感度の低いフィルムを使うと、シャッタースピードが遅くなり、ブレた写真ができることがある。これも、わたしは結構好きだ。わたしのこころも、しょっちゅうぶるぶる揺れるし、迷うこともある。人間なんてそんなものじゃないだろうか。液晶画面のように、ブレのない、べったりとした画像ばかりが美しいとも思えない。
「こころに平安を持った人」になりたい。そう、変化の中でゴロゴロなりながらも、こころの奥底の穏やかさと、愛するこころを見失わない、そんな人になりたい。そう思うこのごろのわたしである。
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