福岡市西区の公園で、6才の男の子がなにものかに殺害されたというニュースが昨夜、放映されていた。
今朝のニュースでも、公園のトイレの壁に背中をもたれる形で、絞殺されていたことが詳しく言われている。
6才といえば、つい先週までNYで一緒に過ごした男の子と同じ年代だ。
まだ首も細く、声も高く、無邪気で、なんにでも興味のある、一番可愛い年頃である。
朝「おはよう、朝だよ、起きよう」とベッドで声をかけると、くるりと自分の腕の中で丸くなっていたあどけない寝顔は、そっと目を開けた。
わたしが家を出て来るとき、走って抱きついて来て、何度もキスをくれた。
あの子と同じ年ごろだ。
たしか、数ヶ月前も福岡市内でお年寄りが殺される事件があった。
弱いものたちがターゲットにされる、病的な現象が現代に起こっている。
四国を歩いたときも、田舎の多くの家の扉も雨戸も、昼間でも閉ざされたままだった。
一人暮らしの年寄りを狙い、強盗、殺人、そしてなんと強姦をするひとが急増しているからだそうだ。
「人間は恐ろしい。自分が一番よくわかる。」
と、録画していて先週見た「大王四神記」で、準主役が言った言葉だ。
高句麗の大将軍だった彼は、追い詰められ、多くの虐殺をした。
罪のない、力のないひとたちを、女子供を、武器を持たない無抵抗な男たちを、大量に殺した。
正気に戻ったときに、彼は、静かにそう言った。
人間には、闇の部分がある。
思わぬときに、怒りや、恨みや、憎しみが生まれ、その炎を消す方法を知らないでいると、知らぬ間にその炎は大きくなり、他人を、そして最後には自分を焼き尽くしてしまう。
なぜ、神はこのような存在、人間を生んだのか。
なぜ、人間は死と向かい合いながら、生きねばならないのか。
いつも恐怖と闘いながら、闇とひかりの合間に生きなくてはならないのか。
他の動物や植物のように死を意識せずに、存在することができたら、このような悲惨な事件も起きないだろうに。
自分を殺すこともない、生殖のため一生懸命生きている小さな蚊でさえ、殺すのは人間くらいだ。
なぜだ・・?
その答えは、人間には分らないのかも知れない。
それにしても、たった6才の幼い命が、公園の薄暗い隅のトイレの壁にもたれかかって消えて行ったことを思うと、きっと、お母さん、とこころのなかで呼びながら、恐怖の中で死んで行っただろうことを思うと、涙が止まらない。
ニュースを見ると、こころが傷付く。
魂が震える。
だから、あまり見ないようにする。
世の中のことを知らなくて良いのか、と自分に問うてみるけれど、このような悲しいことばかりが「ニュース」なのか。
世の中とは、テレビや新聞のニュースになることばかりが、世の中か。
わたしの近所では、互いに助け合っている。
留守の間、わたしのお隣はわたしの食料をケアしてくれた。
近所のひとたちは、太鼓を練習するわたしのことをいつも応援してくれる。
音がうるさい、なんて誰も言わない。
「がんばってるね」「ごくろうさま」と声をかけてくれる。
だれか、こころあるひとがまっすぐな行いをしているはずなのに、それがニュースになることはないのか。
例えば、アフリカの人たちが、命を削りながら音楽を奏でている。
それは、トップニュースにはならないのか。
そう思いながら、テレビは消して、音楽を聞く。
そして、幼い命のことを思い、涙を流している。
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