戻って参りました。
日本に、、、。
実は数日前に体は到着していたのですが、こころがまだこっちに戻りませんでした。
部屋の掃除して、睡眠とって、ジョギングして、いろいろ細かいことして、、、いたのですが落ち着かず、NYと電話したりしていました。
アメリカの原住民の言葉であるそうです。
馬で旅をしたら、歩いて旅をしたよりも時間を省略した分だけ、魂がまだ後ろに残っているから、たき火をして、仲間と話しをしながら、魂が体についてくるのを待つ、という言葉が。
そんな感じです。
飛行機でひとっ飛びに大きな国と大きな海をまたいで帰って来た分だけ、魂が後ろのほうにいました。
こちらでの日常生活は始まってはいたのですが、「わたし」はどこにもいなかったのです。
ブログさえ書けないくらい、中途半端なところにいました。
そして、魂がこの肉体に戻ってくるのを待っていました。
それにしてもわたしは、幼い頃から落ち着きのない性分でした。
椅子には浅く腰掛け、いつでも立ち上がってどこかに行けるようにしていました。
ゆったり深く腰掛けるのが苦手でした。
なにかに縛られるのもダメ。
で、気付くと数十回引っ越しをし、いくつもの国に住み、いろいろなひとと出会い別れるという人生を送って来ました。
わたしがこの世で一番好きで落ち着くと感じた場所は、どこの国でも、飛行場でした。
これを言うと大抵のひとがひくのですが、あの、無国籍で、いろいろなひとがいて、いつでもどこかに旅立てる感じが好きなのです。
ちょっとでも煮詰まると、飛行場がこころに浮かんでしまいます。
とにかく、国籍だとか、国境だとか、自分を縛るものも苦手。
ただの旅人になれる場所が好きなのです。
けれど、この性質には、欠点があります。
自由なのはよいのだけれど、どこにいても、宙に舞ってしまいそうになるのです。
ところが、そんなわたしを地上に降ろし、肉体があること、限界があること、そして、人間として生きていることを思い出させ、受け入れさせてくれることになったのが、太鼓の音とダンスなのです。
NYに長いこと住むことになってしまったのも、結局のところは、ダンスがあったからだと思います。
素晴らしい太鼓のプレーヤーたちがいたからです。
そして、その歓びを分かち合える友たちがいたからです。
昨夜は、太鼓とダンスの練習がありました。
仲間と一緒に、ひとつのリズムを何度も繰り返しながら、楽器を奏で、ダンスを踊りました。
遠い場所から戻って来て、ボイド時間*にいたわたしを「ここ」に戻してくれました。
あぁ、戻って来たな。
あぁ、ここにいるな。
あぁ、まだ生きているんだな。
そう感じることができました。
14世紀のスフィの詩人、ハフィツのお話**。
「最初に神さまは、粘土で神聖な人間の肉体をお作りになり、そこに魂を入れようとしました。けれど、自由に飛び、形をもたないことに歓びを持っていた魂は、肉体という自分を縛るものに入ることを拒否しました。そこで、神さまは、エンジェルに音楽を奏でるよう申し付けました。そうすることによって、魂が歓びの『形』を知り、肉体に入るだろうと思われたからです。神さまの思惑通り、音楽に誘われて魂は粘土に入り、人間が生まれました。けれど・・・真実のところは、魂そのものが音楽だったのです。」
Viva, music and dance!
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*ボイド時間というのは、例えば、月がひとつの星座からもうひとつの星座に移る場合、どこの星座にも当てはまらない「無」の時間があります。
どこにも属さない、中途の状態を指して言います。
辞書では、void =「持ち主のない、空虚な、うつろな、、」などと書かれています。
**Essential Musical Intelligence by Louise Montello
Quest Books 2002 より抜粋(訳:マクタ)
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