なんだかどよ〜んとしたお天気です。
先日の天気予報では雨の予報はなかったので洗濯物を干していたら・・びしょびしょです。
そのまま干しっぱなしになっていて、ムミナトゥ先生クラスで使った腰巻きなどが寂しく曇り空の下に揺れています。
まぁ、いつか乾くだろう・・というかなり希望的観測、いえ、確実な予測(そりゃ、いつか乾きます)のもとに庭に出しっ放しです。
太陽がサソリ座に入ってから、申し合わせたようにグレーな日が続いていますが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。
陽もどんどん短くなっています。
わたしは、今日だら〜んと過ごしました。
録画していた番組を見たり、作っておいた栗善哉を食べたり(美味しかったです)ぼんやり考えたり・・。
今も、ソファに横座りになってこれを書いています。
昨日はダンスクラスでした。
参加した女の子たちから、ムミナトゥ先生のワークショップを受けた感想を聞きました。
一番印象に残ったのは「自分とアフリカンダンスの関係性が分らなくなった」というものでした。
二人ほどそういうひとがいましたが、わたしも、今回改めてそのことを考えていたからです。
学生のころひょんなことからアフリカンダンスと出会い、ずっと続けてきましたが、自分でも「なぜアフリカンダンスなんだろう」と思うことがよくありました。
ムミナトゥ先生に「わたしのように踊れるようになりなさい!」とよく言われ、嬉しいような、いや、そりゃあり得ないだろうし別にそこは目指していない、という複雑な気持ちでもありました。
だって・・わたしはアフリカ人じゃないからです。
かといって、人種や国籍で自分を縛るような狭い考え方もよくないのか、目指すべきなのか・・などといろいろ悩みながらきたわけです。
今回も、京都のキャシーさんが主催するワークショップの東京会場の責任者ということでお手伝いさせていただきましたが、やりながらいろいろとを考えさせられました。
そもそも、こんなことを言ってしまうとおしまいのような感じがしますが、わたしはアフリカンダンサーになりたいと思ったことがないのです。
ただ、好きだということと、やり始めたらその奥があまりにも深いためやめることができなくなっただけで、その道のプロになりたかったのではなくって、アフリカンダンスを基礎体力としたかっただけのです。
これは、昔から変わりません。
要するに、アフリカンダンスはわたしにとっては「過程」なのです。
目標でも終着点でもないのです。
だって・・・わたしは日本人の両親を持ったアメリカ気質の人間で、あくまでもアフリカ人ではないのです。
簡単に言ってしまえば、わたしは日本語のほかに英語を言語として話しますが、アフリカンダンスもある種の言語なのです。
表現し、伝える、その手段のひとつであり、自分の作品を作って行く上の、基礎と知恵のひとつということです。
だから、日本に戻ってきてもアフリカンダンスカンパニーを作ろうと思ったことはありません。
昔、NYでグループを結成したことがありましたが、それも、ヒップホップや前衛やいろいろがミックスされたものでした。
いわゆるアフリカンカンパニーを作ることは、わたしには興味を感じることができないことなのです。
ただ、アフリカンダンスは大好きですし、多くのことを教えてもらいました。
練習の意味、体とこころの関係、表現することについて、ひとと競うことについて、人前に立つことについて、自分を知ることについて、限界を知ることと限界まで努力することのバランスについて、個性と癖の違いについて・・・
それから、混迷する世の中において、比較的ハッキリとしたモラル観のあるアフリカ社会は、多くについて教えてくれました。
特に、部族社会の彼らは人間関係を大切にしますので、その方面で多くのことを教わりました。
もちろん、そのすべてには賛成できかねることもありました。
夏にショートパンツをはいていたら、既婚女性は足を出してはいけない、と言われ、さすがに「そりゃないな〜」と思ったりして・・(笑)
日本では、いろいろなひとがアフリカンダンスに惹かれています。
職種も年齢層も、その向かい合い方も、表現のしかたもそれぞれです。
一時期は彼らの行動に理解できないこともあり、憤っていることもありました。
けれど今は思います。
それぞれが好きにすればいいんじゃないかって。
良いものは必ず残ります。
自分のやっていることは自分にいつか跳ね返って戻ってきます。
なにが正しくてなにが正しくないか、は自ずとわかることだと思います。
また、時が教えてくれます。
わたしはアフリカンダンサーとしてやってゆくつもりはありませんが、これまで長くやってきて、わたしにとってアフリカンダンスは生活の中で大切なものとなっています。
特に怪我をしてからは、健康でいること、自分の足で歩けること、そして、踊れることはどれだけ幸運で奇跡的なことか・・が分りました。
踊っていると体が楽になるだけではく、こころが楽しくなります。
そう、こころも一緒に躍るのです。
汗をかくと肌がピカピカしてきて、姿勢が良くなり、足がしっかりしてくるので、自分のことが好きになれます。
それだけでなく、言葉以外で自分を表現できるツールを持つって言うことは、人間として大切な気がします。
特に肉体で表現すると、ひとは心身ともに開放されると感じます。
そしてどうせやるなら、ちゃんとやりたい、と思うのです。
弱っている足をちゃんと鍛え、ステップを忘れないようにして、太鼓の音に耳を済まし・・・。
これからも、修行は続きます。
そして迷っている人たちに言いたいと思うのです。
「なにか」になるためだけに一生懸命になる必要はないんじゃないでしょうか。
わたしは、たまたまアフリカンダンスに出会ってしまい、続けてきて、いわゆる「アフリカンダンサー」になるつもりはないけれど、これからも一生懸命になりたいと思います。
これまでもなってきました・・(なりすぎだろうって言う噂もありますけど・・・笑)
言葉を喋るのは、なにも素晴らしい作家になるためだけではありません。
たったひとりのひとに、大切な思いを伝えるのさえ難しいものです。
もちろん、体の使い方や、リズムや、意味などをきちんとした先達に教えてもらうのは大切です。
日本人は数千の漢字を学ぶために、複雑な文法を習得するために、幼少のころからずっと修練を積みます。
ダンスも、時間をかけることと、良き師の元に学ぶことは大切です。
でも、意義やいろいろはそんなに難しく考える必要はない、そう思うのです。
大切な人に、体で愛を伝えられるようになったら、これ以上すばらしいことはほかにないと思います。
シンプルで良いのではないでしょうか。
そうするうちに、きっとなにか見えてくるものがあるとわたしは信じます。
だって、シンプルさに到達するって本当に難しいですから・・・
人間として誠実であれば。
本当に好きならば。
それで、いいんじゃないんでしょうか。
楽しい時間が過ごせること、祈っています
投稿情報: makouta | 2008年11 月26日 12:11
お返事ありがとうございます。
アフリカントラディショナルにはちょっとトラウマがありまして。地元、宇都宮のジャンベのクラスに途中参加で2回行ったことがあったんですが。腕がよく動かなかったのと、アンサンブルってのがわけわからなくなってしまって。それきりでした。でも講師のカラモコという先生から、体がおおきいから、もっと大きいジャンベつかえばうまくなるよといわれました。それでもリズムに乗れないのはちょっとちがうかなという気がしてたのです。最近どうにも体ががまんできなくて。以前シャーマンのようなひとにアフリカンダンス見たいのはどうかといわれたの思い出しまして、再挑戦です。今週末いってきます。ありがとうございます。
投稿情報: なまっぞ | 2008年11 月25日 19:37
霊的なひとたちに言われたのですか。
素敵ですね。
なんだかわたしも嬉しいです。
踊りは素晴らしいです。
アフリカンは太鼓も一緒ですし、本当に楽しいです。
幸運を祈ります。
そして、応援してます!
投稿情報: makouta | 2008年11 月25日 11:12
はじめまして。アフリカンダンスでサイトを探していてこちらに来ました。なにか体を動かしたくていましたが、アフリカンダンスというものが楽しいというので、東京の代々木あたりのイベントにいってみようとおもっています。踊りとはぜんぜん違う人生でしたが、霊的な人たちから踊りだといわれたデブ中年男、いったいどうなることやら。手始めにアフリカンダンス体験してきます。これからちょくちょくよらせてもらいますね。
投稿情報: なまっぞ | 2008年11 月25日 00:08