怖い夢を見て目を覚ましました。
明け方のことです。
ちょうど、陽が登る頃でした。
外が白々と白み始めていました。
キッチンに行って、お水をコップいっぱい飲みましたが、胃のあたりがきゅ〜んとしたまま、なかなかおさまりませんでした。
夢の残像がまぶたに焼き付いたままでした。
ある、瞳に希望と歓びをいっぱいたたえた活発な少年が、鉄道事故で死んでしまい、そのバラバラになった遺体を母親が背中にしょって歩く、という夢でした。
まるで、わたしの体がバラバラになったような、恐ろしい夢でした。
少年の下半身はなくなっており、内臓が飛び出た上半身を母親は黙って背中にしょって暗い夜道を歩くのです。
少年の痛みと母親の悲しみが一緒に襲いかかってきました。
大正後期か昭和初期のようでした。
このごろ、鮮明に夢を見ます。
なので、夜遅くはテレビを見ないよう心がけています。
妙なエネルギ−を発するものが多く、それがわたしの体の中に入ってくるからです。
けれど、昨夜は緒形拳さんのことがありましたので、ニュースを見るためにテレビをつけたままにしておきました。
あちこちの局を見ました。
地上波で見れるものは全部。
ところが、昨日は、三人の物理学者がノーベル賞をとったとかで大騒ぎになっていました。
そして、緒方さんの訃報のニュースはすみに追いやられていました。
ニュース23などは、明らかに最初から緒方さんの特集を組んでいたにもかかわらず、それが大幅にカットされ、天気予報の前にほんの少しだけ中途半端なものを放映しただけでした。
暗澹とした気持ちになりました。
なぜ、ノーベル賞がそれほど凄いのか。
分りません。
ヨーロッパ人に功績を認めてもらうことがそれほど、重要なのか。
受賞した科学者自身も言っていました。
「自分の成果は自分でわかっているので、別に賞をもらったからといってなんということはない。」
それなのに、キャスターたちは「歓びの声」を引き出そうと必死になっていつまでも「でも、嬉しいでしょう?」と疲れた表情の科学者たちにしつこく聞いていました。
確かに彼らの科学者としての功績は大きいのでしょう。
宇宙の成り立ちの不思議を追求することは、存在の成り立ちについて追求することです。
科学的な見地から、想像力と夢を実証することの歓びは理解できます。
けれど、死はそれと同じように、もしかするとそれ以上に重要だと思うのです。
生命の成り立ちを知りたかったら、死から目をそむけることはできないはずです。
実際に生きてきた人間たちの声に耳を傾けることこそが、生命のなりたちを知る直接の鍵となるはずです。
そして、ひとつの仕事を実直に、そして命をかけてやってきた人間の生涯とその達した域、そして死に様を知ることは、生きる勇気を与えてくれるものと思います。
ほんの少しだけ見れた緒方さんのクリップで、彼が言っていた言葉のひとつひとつにわたしは重みを感じました。
「演じることをしないことで演じることができることがすごいことだ」
「70才から80才の間が一番いい演技ができるときだと思う。体はいうことをきかないが、こころが円熟している。」
「立派な役者だったと言われるより、良い役者だったと言われたい」
なんでも力任せに生きようとしてきて、若さだけが尊重され、科学と実証と数字に偏って走ってきて混迷している現代社会において、これほど重い言葉はあるだろうか。
彼の役者として生き抜いてきた姿に胸を打たれると同時に、わたしは、そう思いながら聞いていました。
そして、これから高齢化社会を迎えるにあたり、彼の境地はどれだけのひとに勇気を与えることができたか。
そう思うと、残念でなりませんでした。
死を隅に隅においやってきた日本社会。
白人のマネをしてきた日本社会。
それを「平和」と呼ぶのです。
緒方さんの最終的な死因は、肝臓破裂だったそうです。
肝臓は、怒りの臓器です。
カッ目を見開き、宙を睨んで緒方さんは逝かれたと、臨終の場に居合わせた俳優がインタビューで言っていました。
どれほど痛かったことだろう。
どれほど辛かったことだろう。
どれほどの怒りと無念をおさめて生きてきたのだろう。
そう思いながら眠ったわたしは恐ろしい夢を見ました。
けれど、わたしには、この悪夢こそが日本の現実だと、感じるのです。
いくら補正予算案をいじっても、役所のありかたをいじっても、自由民主党が民主党とどう渡り合おうとも、ひとの死を悼み、その痛みと無念を背中にしょって歩かなかったら、死に逝くものの言葉に耳を傾けなかったら・・・どんな明るい未来もあり得ないだろう。
そう感じるのです。
コメント