今年の秋はなぜか、昔の匂いがします。
雨が降るたびに寒くなり、空気が乾燥してゆき、運動会が思い出されます。
この季節は、北部九州では曼珠沙華が華やかに咲き、柿が色づき、栗が落ち始めます。
さまざまなものが実り、美味しい季節でもあります。
ところでアメリカには栗の樹がありません。
たしか1800年代の後半にある病気が栗の木をおそい、全滅したのです。
それより以前にはあったらしいです。
建築物にも栗の木が使われており、栗の木が使われている家は古いのだ、とアメリカのお母さんに聞いたことがあります。
ちなみに彼女の家のダイニングの床は栗でした。
それは良いとして・・・
アメリカにいる間に焦がれたものがいくつかありました。
その中のひとつが栗でした。
今日の生活クラブの配達品の中に栗があったので、皮をゆっくり剥きました。
年に一度はこれを食べないと、日本にいる気がしませんし、秋が訪れた気もしません。
それにしても結構、力と手先の器用さと根気のいる作業です。
きっと昔のひとびとはみんなやっていたんだろうな。
時間がゆるやかに流れ、豊かにひとびとが暮らしていた時代に思いを馳せました。
年寄りが明るい縁側に栗を持って行き、皮を剥く。
そこから見える庭やそれに続く野や川で子どもたちが遊び、ときどきおばあちゃんの作業を眺めたり、手伝ったりするのです。
すすきや菊の花、そして曼珠沙華も美しかったことでしょう。
そんなことを思いながらわたしは、陽の射すリビングで国会答弁をテレビで聞きながらひとりで剥きました。
経済の先行きは不安定。
構造改革で多くの弱者が追いやられている。
ひとびとはどこか暗い気分でいる。
そんな中での野党と政府の攻防。
野党はもっともなことを言います。
特に社民党、共産党そして新党日本。
それに対して、自民党はどこかのらりくらりとかわしています。
どうも全体に『政治』というエゴのゲームに見えます。
政治っていうのは不毛だなぁ・・とどうしても感じます。
昨夜のことです。
電車に乗って家に夜遅く帰ってきました。
となりに、少し汚れた作業服を着た初老のおじさんが座っていて、真剣に小さなノートを睨んでいました。
そこには、お金の計算がされていました。
そう、家計簿だったのです。
几帳面な字で、作業で入った収入と、家賃とほかの経費が書かれていました。
他人の台所事情をのぞくのはさすがに気がひけたのですぐに目をそらしましたが、なんだか胸が痛くなりました。
額が全体に小さかったからです。
泥で汚れた作業ズボンと、小さな骨っぽい体に、どうみてもそんなに若くないごま塩アタマ。
その体ひとつで毎日の生活を支えている。
きっと体が壊れたら、それで生活が終わりというところで生きているんだろうな。
家計簿をつけてくれるおかみさんもいないんだろうな。
切なくなりました。
総理大臣は、こんな夜の電車にはきっと乗ったことはないだろう。
作業服のおじさんの、真剣な目つきを知らないだろう。
国の繁栄ってなんだろう。
ひとの幸せってなんだろう。
あのおじさんも、年に一度は昔の運動会を思い出したり、故郷の曼珠沙華の色を懐かしみながら、栗ごはんを陽の当たる部屋で食べてるといいな、とひとりで皮を剥いた午後でした。
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生の栗の皮の剥くのは容易ではありません。お湯にしばらく漬けてから剥くと剥きやすくなります。母から教わった魔女の知恵です。お試しあれ。
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