筑紫さんが亡くなりました。
ニュース23の司会をやってらっしゃった筑紫哲也さんです。
ニュースで知りました。
どうして、好きな人がこう次々に逝ってしまわれるのかな。
筑紫さんは、オバマ大統領の誕生を知ってから亡くなったのかな。
とめどもなくいろいろ考えて涙が流れました。
筑紫さんは、大分県の出身でした。
福岡県に近い町の出身で、わたしは福岡県の大分県よりの町で育ちました。
筑紫さんとわたしの祖父は昔から親交があり、「筑紫君」という名前はいつも聞いていたし、祖父の誕生日に来てくれたりして食事を一緒にしたこともありました。
朝日の記者だと思っていたのに、日本に戻ってみたらテレビニュースのキャスターをされていたので驚きました。
『少数派であることを恐れず、ひとつの方向にひとびとが流されやすいこの国の中で、多様性を受け入れて行くことが大切だ』と、筑紫さんの言葉が今日のニュース23で流されていました。
その言葉を、その通りに生きたひとだったと感じます。
ひとりで自分の信じる道を歩き、誠実な言葉をはき、いろいろな生き方や考え方を受け入れ、疑問を投げかけ、微笑みながらひとの話しに耳を傾けていらっしゃいました。
彼の最後の『多事争論』では、
この国はガンに冒されている。
これからどうしたらいいのだろうか。
と、おっしゃっていました。
その答えを探してゆくバトンをわたしたちは渡されたのだと、わたしは今感じています。
きっと辛い闘病生活だっただろうと想像します。
もっと生きていて欲しかったけれど、安らかに旅立たれたことを祈っています。
そう、いまごろ痛みからも開放されて、おじいちゃんとお酒飲んで論議でもしていることでしょう。
「筑紫君、よう来たのう。大変じゃったろう。」
「前田さん、ご無沙汰しておりました。いや、今は開放されてますよ。生きてるあいだは大変でしたけどね。ガンっていうのはあれは痛いものですよ。」
「それは大義じゃったのぉ。ま、いっぱい呑んで疲れを癒してくれ。それにしても君はよくやった。」
「ありがとうございます。いただきます。」
「・・ところで、今の日本の情勢はどうじゃ?」
「いや、それがですねぇ、危ないですよ。僕と同じであの国はガンに冒されてますね。いやはや・・」
「やはりそうか。その兆しは昔からあったからのぉ。」
「今ではかなり末期症状ですから、これからのひとたちは大変でしょう。」
「ふ〜む・・・やはりあの戦争が・・・」
「そうなんです・・・」
聞こえるようです。
アフリカンダンスや音楽に治癒のひかりのひとつがあると思うよ、って伝えたかったけれど今はかないません。
それはわたしがいつか死んだときに報告できるよう、バトンを落とさぬよう、精進しようと思います。
筑紫さん、ありがとうございました。
筑紫さんがテレビに出てくれていたお陰で、安心できました。
信じられる灯りがまだどこかにともっている・・そう感じていました。
さようなら。
御機嫌よう、また会える日まで。
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