この頃、ダンスクラスを再開して思います。
なかなか、思いというのは簡単に通じるものではないな、と。
みんな、違う人生を生き、違う経験をしてきて、違うものの見方をします。
やはり、ある程度は言葉にしなくっちゃ伝わらないのだな、と感じています。
それで、少しずつ、わたしの経験と思いを書いて行こうと思います。
なぜ、アフリカンダンスを踊り続けるか?
わたしにとっての究極の答えは、「楽しいから」だと思います。
そして、その「楽しい」にもいろいろな意味があります。
体を動かし、いい汗をかき、リズムにのるから「楽しい」
自分の限界と可能性に挑戦できるから「楽しい」
まわりのひとと一緒にひとつのものに向うから「楽しい」
伝統を知ることができ背筋が伸びこころも助けられるから「楽しい」
とにかく踊ることで幸せになるから「楽しい」
楽しいが沢山あって、続くのだと思います。
ひとによって、楽しいの意味がいろいろあるだろうけれど、わたしにとってはこんなものです。
そして、なにをするのにも原動力は、そのひとをこころから満足させるからではないでしょうか。
わたしは、自分で教えていても、誰かのクラスを受けていても、ステージの上にいても、リハーサルをしていても、正直のところ、全部「楽しい」のです。
もちろん、ときによっては楽しくない場面もあれば、状況もあります。
苦労ももちろんあります。
けれど、太鼓がなり、ステップを踏めば、それだけで幸せ。
それが基本です。
日本で驚くのは、多くの女の子たちが、結婚や、就職や、ボーイフレンドと別れたとか、ある年令になったからだとか、そのような理由でダンスを止めて行くことです。
わたしには彼女たちの気持がわかりません。
ある人から聞いた話しですが「もう、大人になりたいからダンスはやめる」と言ってやめていったひとがいるそうです。
ダンスをやっていることが「子ども」?
言われたそのひとは、ずっと踊り続けている自分のことも軽く見られたような気がして、のけぞったそうです。
少し難しい言い方をすれば、踊りも含めた、どの芸も極めるのは至難の技であり、卒業できるのは死ぬときです。
世阿弥は、40代までにそのひとの「花」が現れなかったら、そのひとの舞いには可能性はない、と厳しく言っていますが*、それはプロとしての話しで、どちらにしても死ぬまで修行だと言っています。
要するに、「大人になりたい」といってやめて行った女の子は、踊りを通して成長することはできなかった、ということになります。
そしてもちろん、彼女の踊りは、大人になるどころか、多分子どもへの第一歩も踏み出していなかったことでしょう。
例えば西洋バレエは、もともと宮廷舞踏で権力者への表現です。
それで、ある一定の技を中心とする肉体能力主義の踊りなので年令制限がありますが、本来、踊りとはそういうものではないものです。
日本の舞踊も韓国の舞踊も、年をとればとるほど表現力が豊かになり、加齢によりその素晴らしさが増すものとされています。
美は、外側からの条件にはてはめるものではなく、内側からあらわれいずるものだからです。
韓国舞踊の一人者と言われるひとに話しを聞いたことがあります。
彼女はその当時40代でしたが「まだまだ若造なので、これからです」と言っていました。
ちなみに彼女の師匠は韓国の人間国宝で、70代。
その舞いは見事なものでした。
圧倒されてしまいました。
人生のすべてがそこにあると同時に、すべてが削ぎ落とされた舞いでもありました。
韓国では芸能は非常に盛んであり、人間国宝になるのは至難の技だそうです。
わたしが出会った女性は、まだ40代なのでまだ国宝になれないけれど、候補ではあるのだそうです。
「これからますます精進してゆきます」と言っていました。
わたしは人間国宝になりたいなどとは思っていません。
でも、彼女の言う意味はよく分ります。
踊り続け、踊り手として成熟して行くことの難しさと素晴らしさ。
人間国宝というのは、名誉のためというより、ひとつの目標であり、ハードルなんだろうと思います。
そして、思うのです。
わたしは、すべてをそぎ落とし、そこにそれまで生きてきたすべてを表現するだけの年寄りになれるでしょうか。
そして、最後には見事に舞って死ぬことができるでしょうか。
考えただけで身震いし、同時にわくわくします。
どうなるんだろう?
それも「楽しい」のひとつです。
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*『世阿弥能楽論集』 世阿弥著作 小西甚一編訳
たちばな出版 平成16年初版
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