数日前、新宿に用があってでかけました。
午後になったら雨が降る、と天気予報で聞いていたので早めに出掛けました。
空を見たら、まだ当分降りそうになかったので、傘は持って行きませんでした。
途中でふらりとデパートをのぞいてみました。
そうしたら、出てくる高校生の女の子たちが声だかに天気予報に怒っているのが聞こえてきました。
「昼には雨ふるって言ってたから傘持ってきたのに。降らないじゃん!超、ムカつく!」
え、、天気予報を信じるの?・・って思いました。
わたしも、一応聞きます。
聞くけれど、全面的には信じはしません。
ひとが言うことは、相手が誰であろうと、参考にする程度がいいんじゃないか、と思うからです。
ものごとの判断を100パーセントひとに頼ると、女子高生みたいに腹が立ちます。
はずれると裏切られた、って思うからです。
それに、わたしは知っているのです。
実は、天気予報というのは、おおよそのことを予測することはできても、的中させることはできないということを。
科学技術の限界であり、地球という宇宙の中の星のミステリーでもあるのです。
宇宙はある一定の秩序をもって動いているそうですが,その動きは非常に複雑で、いまの人間の脳みその使い方(30パーセントの脳も使われていないらしい)と科学技術では、理解できないのです。
気候の動きも宇宙の動きと同じであり、それを100パーセント理解し、予測することは、気象庁には不可能なのです。
宇宙の法則に至っては、1パーセントくらいしか分っていないというのが、科学の常識だそうです。
ところが、科学とはおよそ関係ないところで叡智をもっているひとたちもいます。
わたしの育った町には、海もあり、平野もあり、大地もあり、山もある、とても豊かなところでした。
わたしは、海と大地と山と平地のおやじやおばちゃんたちに囲まれて育ちました。
海のおやじたちが言っていました。
「天気予報なんか聞くか。あいつらのは当たらん。わしらは、ふんどしの湿り具合でわかる。」
海に出るのは命がけ。
当たらない予報を頼ってはいられません。
海のおとこたちは、からだで天気を知っていました。
とくに昔の人は、ふんどしのなびき方と湿り具合でピタリと雨の降る時刻から、波の動きまで当てていたそうです。
自分の肌と経験と知恵で知っていたのです。
そして、第一次産業とはおよそ縁のなかった一般人のわたしの祖母でさえ、夕日の色を見て、翌日の天気のおおよそを知っていました。
現代人の哀しみは、そこにあるんじゃないか、と思います。
今日、雨が降りそうかどうかも分らない。
空の色、風の向き、空気の湿り具合で昔の人は知っていたのに・・
状況を判断する知恵と力がない。
そして自分で自分が分らない。
もし、新宿の女子高生たちに知恵と判断力があったら、16年も生きていたらわかったはずなのです。
天気予報は、かならずしも当たらない、ということを。
だって、16年の間に何度はずれたことか・・・
1週の間にだってはずれるのに。
はずれることに気付かず、いちいち信じてそのたびに腹を立てるのは、相当観察力がない、ということになります。
そしてなぜか組織というものをことごとく信じきってしまっている、ということになります。
現代人の、特に若者のイライラや腹立ちは、子供のころから、周り、特に体制や組織や情報は信じても自分は信じないように、と言い聞かされて育ってしまった不幸にあるんじゃないか、と思っています。
天気を科学で確実に予測することは実は不可能であることさえ教わっていない、そして自分の判断力と直感力が鍛えられるチャンスがほとんどなかった不幸です。
本気で気象庁に腹を立てていた高校生もそうですが、教科書と教育制度を全面的に現実と信じてしまい、東大まで行ってしまって絶望した青年のように・・・。
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