もうすぐまたここを離れる。そういうとき、わたしは少し憂鬱になる。わざわざ、なぜまたどこかに行かなくてはならないのだろうか。この日常で別に良いのだ。もちろん、不満は探せばどこにでもある。けれど、いまのこの場所、このときがほかのどの場所とときとそう違うとも思えない。
東京の知人で、いつもNYのダンス情報を入手しているひとがいる。わたしは、ほとんどNYの情報は見ない。だって、わたしはいま東京にいるのだから。海と大陸を隔てた向こうのことを知ったところでどうにもならない。明日、そのクラスが受けられるというのなら、見る。けれど、受けることはできない。知っても、逆に悲しくなるだろう。NYはわたしのふるさとのようなところではあるけれど、いまのわたしの「現実」ではないからだ。
けれど、 憂鬱だとか言いながら、NYに行ったらわたしは日本のことを忘れる。コロッと・・・。不思議なくらい思うことがない。
そのことを言ったら、今はもうアメリカ国籍をとってしまい、日本に住むことはもうない、と決めている尊敬する日本人女性の先輩が「わたしも同じ。いま、NYのことは考えない。でも、NYに戻ったら日本のことは忘れてるわ。」そう言った。昨日のことだ。彼女は、久しぶりに日本に戻ってきている。そして、わたしと同じ日に、また来週NYに戻る。二人で日本のことを同時に忘れてしまうのだ。
その場所を離れたら、その場所のことを忘れてしまう自分になんだか寂しさも覚えていたわたしは、彼女も同じように忘れるというのを聞いてほっとした。忘れるのは、処世術かもしれない。どうしようもならないことは考えない。考えてもストレスと哀しみしか生まれないからだ。
ただ、忘れてしまうけれど、愛がなくなってしまうわけではない。彼女は、NYに置いてきたアメリカ人の夫のことは、こちらでの日常に埋もれ、どうも本気で忘れているらしいけれど、愛していないわけではない。だって、ちゃんと二人分のお皿やおみやげを買っていたのだから。
ここを離れたらまた日本を忘れる自分が怖かったけれど、きっと愛はなくならない。そう思ったら、憂鬱が少し晴れてきた。
写真は、前々回NYに行ったときにJFK空港駅で撮ったもの。アメリカ東北部の南部には、湿地帯が多く、独特の生態系があったが、今は、開発でほとんど残っておらず、多くの生き物が絶滅している。上の写真は、ほんの少し残った湿地帯。あとは、地下鉄からの写真。ちょうど、ユッスーンドールの映画のNYシーンの始まりと同じような写真だったから、少しわたしは映画を見て微笑んだ。NYは誰の目にも同じなんだな、と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・乙女
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