この国、特に東京は孤独なところだといつも感じています。先日も、秋葉原の駅でひとと待ち合わせをしていましたが、周りを見渡しても座るところがありません。秋葉原のJR駅には、椅子が皆無なのです。とても広いのに、、、あるのは、商売になる自動販売機と小さな食べ物屋とコンビニ。と〜っても、人に優しくありません。さっさと歩くひとびとばかりで、ちょっと休んでお天気の話しでも・・なんておよそできる雰囲気ではありません。冷たい・・・そして、よく見かけるのが、若者の友人/カップル同士が一緒に電車に乗っていて、互いに話すのではなく、携帯でそれぞれがメールやゲームをしている姿。これは、一昔前ならあり得ないことであり、ひととひとのコミュニケーションの崩壊の典型のひとつだと先日山田洋次監督がテレビでおっしゃっていましたが、その通りだと思います。特に若いひとたちは、互いに話すのが下手だと感じます。友だちでも上手く話せないのですから、他人に話しかけることなんて滅多にありません。特に東京ではそうです。みんな内側に孤独を抱えながらも、互いにしら〜〜っとした顔をしています。
この、コミュニケーションの欠落と孤独が、アフリカンシーンを著しく停滞、または後退させているとわたしは常々感じています。まず、音楽もダンスも表現であり、天と地とそして仲間と繋がるものです。けれど、一緒にやる人間同士が、まずコミュニケーションできていないと、どうやったって天とも地とも、もちろん仲間とも見てくれている人とも繋がることなんて出来ません。
次に、仲間内とはうちとけても、外のひとと打ち解けない。自分の理解できないことには拒否反応を起こすという傾向を見受けます。先日、マルコさんにクラスでたたいてもらいましたが、彼のスタイルはセネガルのゴレ島のものです。ギニアともセネガル国立舞踊団とも違います。けれど、音色は美しく、もちろん、リズムもしっかりしています。ときどき、彼の演奏する踊りのフレーズもフギニアとは違うので戸惑うこともありましたが、それはそれで彼の解釈としてわたしは受け止めていました。しかし・・ドラマ−の男子諸君は混乱したのか、かなり一方的なプレイをしていました。その意味も理由も分らずわたしは混乱したままだったのですが、先日、武田さん(わたしのクラスで先々週、少し演奏していただきました)にお話を聞き、多分、男子諸君はマルコさんのノリが分らなかったのだな、と結論しました。かなりギニアのものとは違っていたからです。
アフリカの太鼓やダンスというのは、年代、場所、舞踊団、師匠、いろいろによってスタイルが異なります。全く同じ名前のリズムでも、違う取り方をする人たちもいます。どれが正しいとか正しくない、というのはありません。ただ、それは「それ」なのです。
しかし、問題はそこではないのです。なにも「言わなかった」ことです。
男子諸君にはまだ確認していないので本当のところは分りません。ただひとつだけ言えるのは、彼らは、わたしにもマルコさんにも「これは自分が今までやっていたのは違うから分らない」「体力的に無理」とはひと言も言わなかったのです。ただ、マルコさんにも背を向けてがむしゃらに叩き、わけのわからないムードを作り上げていたのです。武田さんに言われるまで,彼らが体力的に限界にきていたこともわたしには分りませんでした。言ってくれていたら良かったのに・・・と思いましたが、日本のひとたちは、自分の思い、自分の状況をほとんど言いません。
彼らは一生懸命やってくれています。ダンサーが来ない日でも、雨の日でも、風の日でも、太鼓を抱え、夜のオリセンや、土曜の午後の遠い新小岩クラスにまで来てくれています。そして、わたしの要求に応えようと一生懸命叩いてくれています。しかし・・とにかく、気持を言いません。ですから、なにを考えているのか、分らないのです。体力的に無理だったとしたら、言ってくれれば、体力の付け方くらい・・わたしにだってアドバイスしてあげることはできたのですが。そして、マルコさんも彼のリズムの解釈を教えたことでしょう。そうしていればもっと彼らも学べますし、わたしも疲れなくてすむのですが、なかなか本心を言うのが難しいようです。それは、彼らだけではなくダンスの子たちも同じです。これは、アフリカンシーンにおいて、残念な損失のひとつだと考えます。
また、ギニアシーンとセネガルシーンが分かれていたり、日本人とアフリカのアーティストの間でも繋がりは希薄であり、正直、このままではかなり危ういと感じます。先月のゴールデンウイーク中に、3つの大きなアフリカ系ワークショップイベントが関東地方で重なっていたようですが、互いにコミュニケーションをとり、重ならないようにして、みんながいろいろなものが見れるよう、経験できるようするのが本来の形ではないでしょうか。互いにイベントを重ねないようにしたり、コミュニケーションをとるのは、アメリカでもアフリカでも当然のように行われています。みんな、同じものを愛する存在なのですから・・。そしてそれは、日本では日本人側がやるのが自然な形だと言えるでしょう。アフリカのひとたちは日本語が読めないですし、オーガナイズをするのは、日本人ですから・・・。
そして、またの機会にお話ししますが、アフリカの伝統芸能の形はさまざまであり、とても広く深いものです。それを知るには、経験が必要です。そしてその経験をするには、まず、コミュニケーション能力が必要とされます。自分たちだけで安心できる仲間だけでやっていても、CDだけに頼っても、本当の経験も学ぶこともできません。この国は「単一国家」を名乗っていますし(実際は原住民もいれば、いろいろな雑多な人種でもともとは成り立っているのですが)、明治以降、標準語を使うようになり、しかも、世界でも珍しく、言葉をひとつしか話せない民族です。ですから、遠いアフリカのリズムや踊りを学ぶにはかなり精神的な隔たりがあると想像します。しかし、コミュニケーションができないままだと、行き着く先はあまり明るくないと考えられます。そして、アフリカのリズムはなんと言っても、日本のもともとある伝統的リズム感とは真逆のものですから、相当なこころと頭と体の柔軟性が求められます。
まず、言葉を学んではいかがでしょう。アフリカの歴史や現状を勉強してみてはいかがでしょう。話しかけてはいかがでしょう。疑問があったら投げかけてみてはいかがでしょう。互いに助け合い、互いに笑い合い、互いに人間として通じ合ってみてはいかがでしょう。そして、アフリカのアーティストたちのことを支えることも大切でしょう。孤独なこの国において、アフリカの太鼓とダンスはわたしたちになにかを運んできてくれています。日頃から目を見て話すことも、携帯なしで暮らすこともできなくなっているひとには難しいかも知れませんが、勇気をもって、こころを開いてみることがとても大切だとわたしは感じます。そこには、あなた自身の暖かい血の流れるハートの歓びと、豊かな未知の世界を発見することだろうと信じます。
そして、話しをすること、コミュニケーションをとることの最重要な点は、「伝統芸能はひとからひとへと受継がれて行くもの」であることです。現状では、アフリカのアーティストたちと日本のアフリカファンの間には大きな隔たりがあり、多くの人たちがCDやDVDで音楽やダンスを学ぼうとしています。しかし、伝統芸能や本物の知識というのは、録音や録画されたものでは決して学べません。伝統芸能の技と知恵は、
「ひとに」あります。
教えてくれる人の表情に。そのひとのひとつひとつの動きに。そのひとの流す汗に。そのひとの匂いに。そのひとの言葉に・・・
孤独なこの国において、ひとびとが互いにかかわり合いを持たなくなっている現代において、日本自体の伝統文化が廃れていってしまっているのは偶然ではないでしょう。しかし、アフリカの伝統や音楽や踊りを学びたかったら、ひとから教わるしかありません。わたしは最近ユッスー・ンジャエ先生のクラスに通っていますが、参加者の少なさに目を見はっています。ユッスー先生のクラスは知恵の宝庫なのですが・・・そして、ジャンベドラマ−たちがクラスをほとんど受講しないのにも、この現代社会の象徴を見ると同時に、暗澹としたものを感じます。アフリカのダンスや太鼓になにかを見いだしたかったら、コミュニケーション能力を磨き、アフリカのアーティストたちや先生たちと関わり、継続的に教わり、縦の関係を大切にし、なんと言っても、新しいこと、異質なものにこころをひらくことに望みはあるだろう、とわたしは思っています。
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写真上:秋葉原JR駅
写真下:車内で携帯をする友人同士。互いとはほとんど話さない。
日本人は働き過ぎ。ってまた最近思いました。
わたしも毎日働いて。これでいいのか??ってたまに思います。
また丸の内線に今日乗りましたが、異常事態ですよ~皆グレーのスーツでギュウギュウの電車に怖い顔で乗って。わたしも怖い顔してさ。
そんなに働いてもこのザマですか?日本?自国のみでは何もできずに…幸せそうな顔見当たりませんですよ。本当に皆大丈夫かしら~。
わたしも気を付けなきゃな。
投稿情報: oto | 2009年6 月 5日 00:29