子供のころに言われました。母親にだったと思います。諸行無常について、儒教の日本の現状に与えている影響について、美とはなにか、、、とにかく、彼女には多くのことを教えてもらいましたが、これは結構衝撃的なものでした。こう言われたのです。
「人間は、一生かかってもすべてを知ることは決してない。」
まだ幼く(多分7才くらい・・)世の中は不思議と未知でいっぱい。きっと大きくなったらすべてを知るのだろう。そう、希望と好奇心に満ち満ちていたわたしは、奈落の底に突き落とされたような気持でした それにしても、母も、たった7才くらいの小さな子供にそんなこと言ってもいいんだろうか、と振り返ってちょっと笑えますが、言っておいてもらって良かったと今では感謝しています。わたしは、自信満々だったし、根が楽天的ですし、母親がそう言っても、自分は世界のすべてを見て、全部知ってやるんだ。これまでの人間ができなかったと言うのなら、じゃ、わたしが人類で最初の人間になってやる、くらいに思っていました。子供というのは、無邪気でアホで無謀なものです(笑)。かなり長い間そう思っていました。
しかし、しかしです。12才で海外に行き、17才で家を出て完全に外の世界に入る頃には、だんだん分ってきました。あ、やっぱり無理 だって、世界には沢山の言葉があって、自分にはそれさえ分らない。せいぜい日本語とちょっとの英語しか話せなかったのです。そして、英語が流暢に話せるようになっても、たったの2つだけ。NYには、街中にスペイン語が溢れていますが、わたしにはほんの少ししか分りません。今でも、英語と日本語と、少しのフランス語と中国語とスス語しか話せません。ところが、NYには170の言語があるのです。ひとつの街で170です。それだけ多様なひとびとびとが住んでいるのです。世界とはそんなものなのだ、とようやっとわかったのす。
これは、踊りの世界でも同じです。アフリカンには、ものすごい種類のダンスとリズムがあります。ギニアだけでも60以上のいわゆる「部族」がいて、それぞれがそれぞれのダンスとリズムをもっていて、ひとつの部族でも複数のリズムがあり、そして、世代やひとによってスタイルが違います。それをどうやって全部網羅するか・・・できるわけないのです。一生かかっても無理です。わたしが170の言語を話せるようにはならないのと同じように、不可能なのです。
では、だから諦めるのか?
そうではないのです。それを諦めるとしたら、生きていること自体を諦めなくてはならなくなります。わたしが7才のときに受けた衝撃で自殺しなくてはならないことになります。そうではなく、ただ、ひとりの人間として限界があることを知り、自分のできることをやり、謙虚になるだけなのです。日本の多くの人が、「自分はこれだけステップを知っている」「リズムのパターンを知っている」と言いたがったり、顕示したがります。そして、コレクションのように、いろいろなステップやリズムを知りたがります。しかし、大切なのは、どれだけのステップやリズムパターンを知っているかではありません。
ひとつのステップ/音をどれだけ自分の魂と肉体で表現できるか、です。
いくら100のパターンを知っていても、1つも自分の踊りを踊ることも音を演奏することもできなかったら、それはただの受験勉強と同じです。ペーパー上の虚無でしかありません。踊りとは、太鼓とは、魂を肉体と音で表現するものです。しかも、行ったこともない国の見たこともないひとびとの表現方法を使って自分の魂を表現しようとするのですから、日本人がアフリカンをやるには、ものすごい障害があります。それでも、そこには人間の根源的な「声」があり、それがひとびとを惹き付けます。ですから、障害を知った上でそれをやるのでしたら、自分の声とその声がどのように響き合うか、を自分の中で探ることが大切だろうとわたしは思います。
そのためには、まず、「自分は最後まですべてを知ることはない。」という現実をしっかり引き受け、「もし1つのステップで自分を表現できる踊りができるようになったら、それほどの幸いはない」ことを知り、多くのレッスンを受講することと、練習を積むことが大切だろう、と考えます。そして、もし、1つのステップでそのひとが魂の表現ができたら、2000のステップを網羅する必要もない。なぜなら、すでに、魂と体が一番大切なものを知ってしまうからです。そして、これはアフリカンに限ったことではなく、生きる上でのすべてに共通している。わたしはそう思います。
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