このところ、少しずつ家の中を片付けています。ちょっとした事情で、来週半ばからバルセロナのスペイン人建築家が泊まりに来るのが大きな理由のひとつです。それで掃除・・・このところ、忙しさのせいと、精神的に追い詰められていたこともあり、家の中は殺伐としていました。一度、妙なサイクルにはまると人間ってなかなか抜け出れないもの。定期的に片付けてはいたのですが、どこかスッキリしない感じでした。体(たい)はこころを現すといいますが、精神状態が部屋に現れていたと思います。
しかし、今週末は「よし!」と、忙しいーストレスー生活荒れるーのサイクルを止めるべくふんばって、家の中で落ち着くようにしました。体に優しくて良い食事をし、こころをゆったりもち、昨日は全体を掃除して、家中を雑巾がけしました。それで随分スッキリ。そして、今日は冷蔵庫を掃除。いやいや、いろいろなものが出てきました 自分には「最後のちょっとだけ」を残す妙な癖があることは知っていたのですが、冷蔵庫に「ほんのちょっと」の残り物がいくつもあって・・・これは、わたしが案外に思いきりの悪い人間であることを如実に現しています。なんだか、その最後を使い切るとホントの「さよなら」が来てしまうような・・そして、二度と楽しいことが来ないような気がするのです。
わたしときたら、ものすごいセンチメンタル野郎で、子供のころなんか遠足に行く前の日に泣いていた、という体たらくでした。あぁ、明日遠足に行ってしまえば楽しみにしていたことが終わっちゃう・・・!って行く前から布団の中でさめざめ泣くのです。いや・・・ 笑えませんねぇ・・。そう言う妙なところを持った人間なので、「おしまい」に対して恐ろしく敏感で寂しがりやで、情けないヤツなんだと思います。かなり思いきりが悪いところがある。もういい加減に別れたいと思う男ともなかなか別れられないことがあるのは、そのひとが好きだからというよりは、別れが嫌いだから、っていうこともあったりするので大反省なのですが、冷蔵庫を見て、う〜む・・と改めて冷や汗をかいていました。
そんなこんなを思いながら綺麗にしたのですが、掃除しながら音楽をかけようかと思いました。けれど、どうも音楽を聞くと余計な頭を使いそうな気がしたので(今、自分の音楽の録音をしているので、どんな音楽を聞いてもいろいろ考えてしまう。このボーカルの息継ぎはどうだとか、この楽器の音はこの音量でこのタイミングで入ってくるのか・・とか)ベトナム人のお坊さんのお説教のCDをかけることにしました。7枚組のセットなのですが、適当にまだ聞いたことのなかったひとつ選んでかけました。
なんと冷蔵庫を掃除するのにピッタリの「お腹を空かせた亡霊」についてでした。世の中は、食べ物やモノや愛情に餓えた、いくら与えても決して満足することのない、常にお腹を空かせた亡霊で満ちている、というお話でした。
実は、わたしもこのことについては、自分でも思っていたことがありました。ダンスを教えたりある程度の年齢になり、ひとの先輩である立場になってきたわたしですが、周りのひとたちがみんな餓鬼、そう、お腹を空かせた亡霊に見え始めたのです。いくらこちらが知識や技やこころを与えても与えても、相手は満足しないのです。もっと、もっと、もっと!と目をギラギラさせて叫ぶのです。人生相談をしてくる人もいますが、電話で一度でも応対すると、延々と話しをしてきます。そして、あなたしかいないのよ、とか、誰もわたしのことなんて相手にしてくれない・・と言い始めます。そう言われると困るのですが、実際のところこちらも苦しくなります。いくらなにを与えても満足しませんし、一方的に、食べられている感じがするからです。エネルギーを・・・
ダンスクラスも同じ。生徒たちは、ただ、欲しい、欲しい、と欲が強く、スケジュールはきちんとしてくださいとか、このリズムはこういうふうに教えて欲しいとか、スタジオは便利なところにして欲しいとか、時間帯はこれがいいとか、先生にはこうあって欲しいとか、こうしてくださいの欲望は沢山あるのですが、では自分たちからなにかを返そう、自分はこういう生徒であろう、という態度または志しがあるかと言えば、それは感じられません。たいてい、相手に求めるだけです。お金さえ払っていればなにをしてもよく、相手に無限に欲求してもよい、とさえ考えているかのようです。時にはお金を払わずに少しでも「得」をしたいという態度も見え見えです。そして、なにか自分がひとつでもすると、認めて欲しいという態度を出すか、見返りを求めます。それが、わたしがクラスをよく中断する理由のひとつです。こちらが消耗してしまうのです。
これは、わたしのクラスだけではなく、どのクラスを見ても生徒の態度はほとんど同じと観察しています。あるフラメンコダンサーも同じ理由でクラスをよく中断するそうです。こうした経験と観察のもと、世の中には餓鬼がいっぱいいる・・と結論していたのです。そうしたら、お坊さんも同じように言っていたので、なるほど、これは発展国特有の人間社会の有様なのか・・とひとりで大きく頷いて納得したのでした。江戸時代の巻物にお腹だけが異様に大きく迫り出て手足のやせ細った、目がギラギラの餓鬼の絵があります。昔からそういう人はいたんだろうと思いますが、今、精神貧困国=工業発展国の日本には、餓鬼のほうがそうでない人より数が多くなっているのかも知れません。
なにか、永遠の、無限の、そして無条件の愛を、相手や自分の外に求めているのだな、と感じます。でも、よく考えたら、わたしもそうだったのかも知れません。好きな人ができたら、相手に完璧と果てなき理解と愛情を求め、誰かが手放しで自分を受け入れてくれることを望んでいたような気がします。自分の不幸を誰かやなにかのせいにしていた気がします。長い時間をかけ、いろいろな経験を経て、そして失敗も繰り返しながら、餓鬼にはなりたくないな、と結論したのです。餓鬼でいることは苦しいからです。そして、無限の愛や幸福を外に求めるのはやめるようになりました。けれど、それでも冷蔵庫に「ほんのちょっと」を溜め込む餓鬼が、まだわたしの中にも棲んでいます。
とにかく、まず自分自身の中の餓鬼にエサを与えないようにすることが肝心だ、とお坊さんはおっしゃっています。それには、家族と繋がること。祖先を敬うこと。きちんとした食事をすること。健康に留意すること。などが挙げられていました。当たり前のことばかりですが、それが出来てないのが現代人の多くなのでしょう。わたしもこのところ、あまりの忙しさにちょっと荒んでいました。今夜は*チキンヤッサでも作ってこころも体も満たそう。そして、良い映画でも観ようと思っています。明日から大変な日々が再び始まります。そして、お坊さんが言っていた一番のポイントは、自分の中の餓鬼ときちんと対峙すること。これが一番難しいのですが、わたしの場合、冷蔵庫の掃除はもっと定期的にやって、自分の中の餓鬼を見つめ続けようと思ったのでした。そして、そいつを笑い飛ばしてやろう、そして、餓鬼の元である不安でセンチメンタルで怖がりの小さな自分を時々抱きしめてあげよう、と。
あ、そうそう、今日は東京は都議選の投票日です。政治や世の中の悪さを人のせいにしないよう、これまた餓鬼への一歩を踏まないよう、少し涼しくなったらジムに行く途中で投票しに行こうと思います。あなたも行ったでしょうか。
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*チキンヤッサは、鶏肉とタマネギを炒め、マスタード、酢、塩、胡椒などで味付けしたセネガル料理。暑い季節でも食がすすみますし、美味。
写真上:冷蔵庫の中の掃除して、いろいろ洗って干しています。透明のは野菜室のボックス。気温が高くて少し風があるので、すぐに乾きました。
写真下:野菜は色も形も美しい。美や歓びや幸せは目の前にいつもある。それを知るのが人間。忘れてしまっているのが餓鬼・・・ということなのでしょう。
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