このところ、DVDを立て続けに見た。
お盆休みで甥が遊びにきていたせいもある。
その中の一本がオリンピックの開会式を総指揮した、チャン・イーモウ監督の「上海ルージュ」だった。
じつは、この映画、随分むかしにNYの劇場で見ていた。
けれど、邦題が分らなかったので、まちがえて借りてしまった。
イーモウ監督の作品とも気付いていなかった。
最初のシーンを見たとたんに、「あ・・」と思った。
けれど、偶然とは言え、再び見れて良かった。
ただし、夜中にひとりで見たので、どうも、いろいろな気持ちが残っていけない。
この映画は、田舎から出て来たひとりの女の生涯を、7日間に凝縮して描いたものだ。
中国では田舎と都会の生活格差が激しく、女性の地位もずっと低かった。
それが悲劇的な形で描かれた映画で、わたしはぼろぼろ涙を流しながら見終え、なかなか寝付けず、目を覚ましても、妙な気持ちが残ってしまっていた。
映像はいつものイーモウ監督らしく、とても美しかった。
夜のシーンでは色彩が極端に抑えられ、主人公の女の赤いドレスと口紅だけが、全体に蒼い画面に浮かび上がっていたのが特に印象的だった。
今回のオリンピックでは、中国政府のありかたが批判されているところもあるようだ。
開催セレモニーでは実際に歌っていた女の子と出演していた女の子が違っていたり、開発のために多くのひとが追いやられたり、極端に言論の自由が制限されていることなど・・
わたしも実際に、台湾、香港、中国大陸のそれぞれの中国人とこれまで接点を持って来たけれど、確かに、中国の政策が落としている影は否めない。
けれど、中国は、どこの国でも同じだけれど、多様な面を持っている。
いろいろな人がいて、いろいろな思いを持ち、いろいろな生活がある。
NYの知りあいのひとりに、大陸の詩人がいた(中国本土のことを、中国人は「大陸」と呼ぶ)。
彼は、文化革命で学生時代に下放され(多くの文化人や上流階級のひとたちが、田舎に送られ強制的に労働を強いられた)、その後、北京に戻ったけれど、天安門事件に関わり、国を逃げたひとだった。
中国では、名の通った詩人だったらしい。
NYではパトロンがつき、そのひとに経済的に支えてもらいながら、日々、酒を飲みながら詩を書き、発表しながら生きていた。
時々、パリに逃げた、同胞で恋人だった女性から電話がかかっていた。
もの静かで、ハンサムなひとだった。
チャン・イーモウ監督は、NYでは知られたひとである。
NYタイムズでも、その映像の美しさと、中国の歴史とありかたにするどく切り込む物語性と、彼の生き方まで、折りに触れて書かれていた。
新しい映画が出るたびに、すぐに上映された。
わたしは、同じアジア人として、その美的感覚と世界観に誇りを感じながら、必ずといってよいほど彼の新作は見に行った。
その彼が今回のオリンピックの開会セレモニーの監督とは、実は信じられなかった。
わたしの勘違いではないか、と思った。
実際にセレモニーを見てすぐに、勘違いではない、これは、確かにイーモウ監督の感覚だ、と分り、少し驚いた。
彼は、必ずしも中国の体制に賛同的な態度ではない印象があったからだ。
イーモウ監督がどのような気持ちで作ったか。
それは、分らない。
けれど、どんな国でも、祖国は祖国である。
わたしが、アメリカでオリンピックを見るたび日本の選手を見たいと思ったように、雨が降るたびに幼少時代を思い出したように、知人の大陸の詩人が酒を飲みながら、過去を苦しそうに思い出しながらも、祖国が忘れられなかったように、イーモウ監督にとっても、祖国で世界中のひとびとの集まるオリンピックを開催できることは嬉しかったのかも知れない。
または、一芸術家として、世界中に見てもらえる舞台を作ることは、冥利だったのかも知れない。
どちらにせよ、イーモウ監督を採用した中国政府に、わたしは一縷の望みを託したい、とも思ってしまうのだ。
学生のころ、わたしは、アメリカの大学から、大陸の吉林大学への交換留学が決まっていた。
それで、台湾で語学留学をしていた。
しかし、台湾での留学を終えて香港での研修を終えたころ、やはり音楽をやりたい、と思い直し、NYへ戻った。
それより前の12才のとき、香港から、大陸との「国境」を見た。
小高い山から、裾野に延々と広がる大地があった。
「あちら側が中国だよ」と指差されたところには、あひるが川に遊ぶ、のどかな田園風景が広がっていた。
あれから、中国は香港をイギリスから返還させ、経済開放し、大きな変化を遂げた。
わたしにとって、中国はとてもすぐ傍まで行きながら、とうとう足を踏み入れなかった、近くて遠い国である。
「香港ルージュ」の主人公は、10代のデビューから、ずっとイーモウ監督と仕事を続け、彼の代表作のほとんどの主役を務めている女優である。
そして、イーモウ監督の長いあいだの愛人でもあったという。
彼女の、美しくも怪しく、そして哀しい瞳が、焼き付いたままのわたしである。
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