とにかくこちらに来て、力が抜けています。
気も、、、、(笑)
デトロイトの空港で危うく荷物を失いそうになった話は書きましたが、昨日も出かけてみたら、バッグに2ドルしか入れてなかったことに気づきました。
200円ちょっとです。
これじゃ、なにもできないな~、とクレジットカードでタクシー代を払って目的地についてから思いました。
そう、目的地は、メトロポリタン美術館。
美術館のはす向かいにある学校で働くひとと待ち合わせをしていたのもありますが、久しぶりに美術館に行ってみようと思ったのです。
ここは、世界の中でも有数の規模とコレクションの内容でトップクラスの美術館で、中にはピラミッドまであります。
昔はしょっちゅう行っていました。
特に大学生のころは、気分転換に行ったものです。
お年頃はいろいろ悩みが多く、頭がごちゃごちゃしていました。
そんなとき、昔からある絵画や彫刻をみて、そこに人間の持つ才能や苦悩や喜びを見ると、なんだか落ち着いたのです。
そっか、ひとはこうして悩みながら、なにかを生み出しながら、そして去りながら生きているんだな、と思えたのです。
その日、気に入った絵があると、そこに座ってじっと見て帰ったりしました。
NYというのは、大都市ですので、当然、込み合っています。
競争も激しい町ですし、いつも変化していて、騒音も激しいですし、こころがすさんでくることがあります。
なので、ときどきそこから脱出する必要があるのです。
天井が数十メートルもある建物で、すばらしい才能の作った美術品に囲まれているだけで、こころがほどけ、開放され、そして、安心するのでした。
学生でもしょっちゅう行けたのは、NYの博物館や 美術館がひろく多くの人に開放されているからです。
と、いうのは、一応入場料というのが設定されているのですが、実は、それは「基準」であって、いくら払ってもよいのです。
15ドルというのが基準なのですが、お金のないひとは、1ドルでも25セントでもよく、あるひとは、もっと払う、というふうに。
ですから、2ドルしか手元になかったわたしでも入れたのです。
そんなので、どうやって、大規模の美術館を経営するか?
金持ちや、財力のある企業が寄付をするのです。
アメリカでは、寄付をするとその分の税金が免除されるというシステムがあります。
また、資本主義の基本のひとつである、「お金を持っているひとには社会に貢献する責任がある」という考えがまだどこかに生きているからです。
企業にとってはよい宣伝にもなります。
そんなこんなで、どんな貧乏人でも、よいものに触れる機会が与えられるわけです。
そこから、才能が開花する子供たちも生まれるというわけです。
よい芸術家になるには、まず、よい芸術に触れることが最初の一歩ですから。
これは、ダンスも同じですが。
なんて、いろいろ書きましたが、昨日は美術館には入りませんでした。
ぼんやりしていたのと、時間があまりなかったことが理由でした。
また、近いうちに行きます。
で、美術館のある5番街からマディソン街を通って一旦家に戻りました。
このエリアはNYの中でも、保守的でお金持ちのエリアです。
世界の中でもトップのお金持ちが、アメリカ特有の上流社会を繰り広げているところです。
歩く人たちの層も違います。
そしてほとんどが白人です。
その中を歩き、バスに乗り、今いるハーレムに戻りました。
ハーレムは、この高級住宅地からすぐのところにあります。
もともと、ハーレムも白人の高級住宅地だったのです。
今、ハレーレムには西と東のハーレムがあり、東はプエルトリコやドミニカ共和国といった、カリブ海の島々からの貧しい移民が住み、西には、アフリカ系の黒人が住んでいます。
どちらも、貧しい地域です。
超高級エリアからほんの1~2キロの距離で広がる貧民街。
いつも、この変化にとまどいを覚えます。
わたしは、アメリカに来た当初、白人社会にいました。
それも、超がつくエリート社会にいて、アメリカでもナンバーワンのお金持ちエリアでした。
ハリウッドも足元に及ばない、といわれたところでした。
古くからある町で封建的なところでした。
NY市内から車で1時間ちょっとのところですが、普通のアメリカ人でさえ、足を踏み入れることのできない世界でした。
そこには、わたし以外「有色人種」はいませんでした。
なので、わたしは自分を鏡でたまたま見かけるとビックリしていました。
笑えますが、本当です。
あれ、誰?この有色人種は?って。
だって、毎日朝から晩まで白人しか視界に入らないのですから。
黒人の住む町を車で通るときは言われました。
「窓を閉めて、鍵をかけて」と。
春の気持ちのよい風にあたっているときでも「Would you please roll the window up and lock the door?」といわれました。
どうして?
と、聞くと、黒人はなにをするか分からないから、といわれました。
貧しそうな人たちがうろうろするのをわたしは窓から見ながら、彼らがいかに乱暴で恐ろしい人たちか、を聞かされました。
わたしの生活は、学校と、英語のレッスン(これも、アメリカでも有数の幼稚園から高校まで一貫の私立女子高の校長をしていたという女性に、週2回、個人的に特別授業をしてもらっていた。お陰で、いわゆる上流社会英語を最初に身につけてしまった。笑)、それ以外は、ヨットクラブ、ビーチクラブ、カントリークラブ(乗馬クラブ)、夏は農園でイチゴをもらいに、冬はキャビンでスキー、という生活でした。
わたしを家族として受け入れ、育てようとしてくれていたのは、テキサスでオイルを掘り当てて大富豪となった家族の末裔と、イギリス王朝から派遣された貴族の末裔でした。
完全に白人の上流英語を使い、いろいろなひとと交流し、一種独特なアメリカ社会を学んでゆきました。
そして、段々自分に疑問を抱くようになりました。
それなりに楽しかったし、それなりに、今でも感謝しているほど、普通ではできない多くを経験させてもらいました。
あの時間と経験が、わたしのアメリカ生活の基礎を作ってくれたこともわかっています。
そして、その後に続くいろいろな恵まれたチャンスや、広い視野を与えてくれたことも分かっています。
けれど、、、自分は最後まで有色人種であり、どうしても、誰か(貧しいひとや、有色人種)を排除した社会に生きていることに息苦しさを感じたのです。
そして、その小さくてエリートの社会から脱出することにしました。
「地元」の学校に通い、白人と将来は結婚してずっとそこにいて欲しいと願うひとたちを置いて、NYに出たのでした。
5番街からマディソンにかけて立ち並ぶ超高級ビルを眺めながら、行き交う白人たちの様子を見ながら、昔を思い出しながら歩きました。
わたしを取り囲んでいた、上流社会のひとたちがそこにはいました。
実は、NYでは「普通」の生活をしていたのですが、主治医や精神科医などは、みなこのエリアにいて、しょっちゅう通ってもいました。
なので、昔の経験からも、それ以降の経験からも、彼らがどんな生活を営んでおり、どんな会話をしているか、一目見ただけで想像できるのです。
懐かしいと同時に、彼らの閉鎖的な生活を知っている私は、複雑な気持ちでした。
揺れる気持ちを抱えながら、ハーレム行きのバスに乗ったら、黒人のおばあちゃんが、「隣に座る?」とスペースを空けてくれました。
その笑顔と言葉の温かさに、わたしは、自分の選択した人生を「間違いではなかった」と思ったと思いました。
そして同時に、少し嫌悪感のあった排他的な白人社会を、以前よりは「人間として」受け入れられるような気もしたのです。
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