以前は食べること自体が好きではありませんでした。
なぜ、お腹が空くのだろう。
食べなくても良ければいいのに・・と思ってました。
いつもやりたいことがいっぱいで、食べることが面倒だったのです。
時間の無駄だと思っていました。
しかも、マズいものを食べると気分が悪くなる、という厄介な性格で・・・ますます食べるのがおっくうで、憂鬱でした。
でも、踊りは体が資本。
食べ物で体が形成されること、食べ物で気分も変わることなどが分り、気をつけるようになりました。
日本に来るまでは、それでも、自分で作ることはほとんどしませんでした。
今は、やっています。
日本では外食の環境が良くないからです。
でも、これが良かったようです。
自分で料理をすると、生きていることは、すべてと繋がっているということが分ります。
白玉善哉を作りました。
米粉を水とこねるときに思います。
あぁ、これは百姓が田に植えた稲から採れた米を精米して、その米を粉に轢いて、パッケージされてここに来たのだな。
昔は、石臼で使うぶんだけ轢いて作ったんだろうな。
きっと轢きたての粉で作ったお団子は、ホントに美味しかったんだろうな。
新米で作る秋の名月のお団子っていうのは、いろいろな意味でスペシャルだったんだろうな〜。
こねこねしているとなんだか気持ち良くなってきます。
子どもが泥遊びをして恍惚の世界に入るのと同じです。
熱湯に丸めた団子を投げ入れ、それがふわ〜〜っと浮いてくるのを見ると、気持も一緒にふわ〜っとしてきます。
百姓の顔、田んぼの風景、いろいろ思い浮かびます。
小豆を見ると思います。
不思議だな〜、土にこの豆を撒いたらそこから芽が出て、だんだん大きくなって、また豆がいっぱい出来るんだな。
太陽のひかり、雨、風、土の養分、たくさんその身に受けてここまで来たんだな。
カチンと頬を膨らませたような乾燥豆も、煮ると柔らかくなって優しい表情になります。
そして、出来上がったものをいただくと、こころから満足するのです。
忙しくて頭がグルグルしても、気を使ってこころがヘトヘトしても、運動して足がフルフルしていても「あぁ、大丈夫」と思うのです。
自分に食べ物という愛を与えている自分に感心し、エラいエラいと思うのです(笑)。
食べ物が信頼できず、外食もできず、最初は苦労した日本でしたが、逆境のお陰で一生できないだろうと諦めていた料理ができるようになってきました。
そして、時間とひとと自然の流れと以前より繋がっている気がします。
幸せです。
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