
NHKの朝の連続テレビドラマ小説を見るのがわたしのひとつの癖というか、日本での習慣です。(アメリカに戻ると、一切日本の番組はニュースも含めてみません。)そこには、日本での女性の置かれた立場と、その時々の世相の問題点を扱っているというのと、暴力が出て来ないので朝食を食べながら見るのにちょうどいいという番組だからです。今、放映されているのは、あ・・題名が思い出せない。要するに、題名が思い出せないほどかなりシナリオに満足していな番組で、今回ばかりは苦労しながら見ています。何度「もう、見るのはやめようかな」と思ったことか・・(苦笑)。でも、なにか一度始めると最後まで、というのがわたしの良かったり悪かったりする性質で・・止められません。最後まで見て、とことん納得したいのです。
で、昨日の放映でしたが、登場するイッセー尾形さんの台詞に「正論ほど弱いものはない」というのがありました。わたしは、日本でよく耳にするこの傾向の言葉にいつも心地悪い思いをしてきました。言い訳っぽい・・・。なにか正統なことを言うと「聖人じゃあるまいし・・」とか「そんなこと言う資格がない」とか「正論ほど弱いものはない」と逃げる、と感じ、また、本当にいわゆる「正しいこと」をやるひとや「一生懸命」なひとを揶揄し、嫉妬する、という印象が強いのです。まるで、三島由紀夫の『金閣寺』の主人公でこの世は蔓延している感じです。
それが、アフリカンシーンにも反映されていると思うのです。ダンスやドラムは好きなひとが好きなようにやるのが本筋だと思います。ですから、誰も、こうしろ、ああしろ、ということはできません。けれど、なにが正論であるか、というのはあると思います。例えば、アフリカの伝統を教わるのなら、アフリカのひとを敬うこと。また、まず、日本にいる困っているアフリカのひとを助けること、というのが正論だと思います。しかし、多くの人が、日本にいるアフリカのアーティストへの関心を持ちません。彼らの、「外国人」としてのこの国での立場。外国人登録証を持っていないと警察に酷い目にあうこと。人権がほとんどないこと。差別に絶えずあっていること。アーティストとして生きて行くことの大変さ。それをまるで無視しているように感じます。そして、アフリカに行って少しでも安くモノを買い叩き、高く売りさばくひともいます。そして、アフリカ人がお金もうけをしようとすると、「アフリカ人はお金に汚い」と言います。「どうせ、あいつら金ばっかりでしょう?」と言いますす。
今、ちょうど、『スマイル』という、日本における外国人への差別を映し出したドラマが、毎週金曜に放映されています。そのドラマの主題歌が、椎名林檎の『ありあまる富』という歌ですが、この歌は日本の世相を正直に映し出そうとしていると感じます。これほど富を謳歌しているわたしたちは、貧しい国の人たちがわたしたちのものを少しくらい盗もうとしても気にすることはないじゃないか、というものです。わたしは、彼らがもし盗もうとしているとしたら、資本主義社会にされたほんの一端を真似しているだけであり、しかも大多数は盗んでなどいなので、この歌詞の「盗む」という下りには不満ですが、このような曲がメジャー路線で世に出たこと自体には少し希望を感じています。
だって、本当にアフリカの国々は貧しく、その大きな原因はわたしたち資本主義者にあるのですから。ギニアはアルミニウムやボーキサイトなどの天然資源を豊富に抱えています。アルミニウムにおいては、世界の生産量の30パーセント以上を占めるそうです。わたしたちが、普段から使っているアルミ・・です。なのに、世界で下から数えて5番目ほどの貧しさ、というのは、コチラ側の人間が一方的に搾取しているからに他ありません。中国や西側資本がギニアには続々と入っています。けれど、アフリカは全くもって経済的に豊かになりません。それと同じことを、民間レベルでもアフリカンシーンのひとたちがやっているわけです。100ドル以下で買ってきた太鼓を6倍以上の値段で売ったり、安く買った布で服を作って何十倍という値段で売ったり。その理由が「あちらの国は貧しくて貨幣価値が低いのだから」という理由です。フェアトレード、という観念は、わたしは「正論」だと思うのですが、「正論は弱い」というこの国では、なかなか浸透せず、アフリカシーンでも同じなのです。
しばらく、ダンスクラスはやらないことにしました。その理由の主なものはまったく個人的な理由ですが、少しは、日本のアフリカシーンに納得行かないところがあまりに多いので、今は、日本にいるアフリカのアーティストたちの応援をし、自分の踊りを磨くことに集中したい、と考えたのもあります。もちろん、自分も教えながら彼らの応援をすることもできますが、その余裕が今はないのです。ですから、ココでいわゆる自分の信じる「正論」を言い続け、あとは、自分の踊りや音楽をなんとかしよう、と決めたのです。その矢先にこの朝ドラの「正論ほど弱いものはない」という台詞を聞いたのでした。聞いてますますやる気になったわたしです(笑)
わたしは思います。「正論が弱い」というのは、自分が弱い人間であるということを認めることのできない高慢な人間が吐く言い訳だ、と。人間は弱い生きものです。正論通りいつも行動を起こすことはできません。または、正論を言うとそれが自分に返ってくるので、言う勇気を持つこともできません。わたしも、いつも自分の闇や恐れや弱さに押されそうになりがら毎日生きているので分ります。自分にはかなりアホなとこもあり、おっちょこちょいでもあり、朝顔を洗うのを忘れるほど怠慢なところがあることも、ひとの名前が覚えられないことも、ほかにも今ここでは公言したくない多くの弱点があることはじゅうじゅう承知してます。けれど、それを「正論」とすりかえたくないと思うのです。弱いのは「正論」ではなく、「コッチ」の人間のほうです。正論を弱いもの、とすると、人間はずっと言い訳をして、闘っても勝ち目のない闘いをなんとか自分の勝ちにしたいがため、悪いのは正論ということにして、とうとう弱い自分と闘うこともなく、自分を正しい方向へ導く努力をしないことでしょう。どんどん高慢チキになってしまうことでしょう。そして、どんどん内側が虚ろになって、そのひとが一番自分のウソに苦しむことになるでしょう。正論に弱いも強くもなく、単なる正論であり、弱いか強いかは人間の問題であると思います。
なんにしろ、弱い自分を正当化するために、正論こそが弱いと言い放つような人間にはなりたくない。そう思うのです。
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写真上:缶コーヒーやビールにもアルミは使われている。
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