まだ6月の半ばですが、夏の空気だと思っていたらやはり昨日も最高気温が25度を上回っており、夏日だったことをニュースで聞きました。今日は少し気温は下がっていますが、それでも、夏の気配です。上の写真は、昨日通りかかったショッピングモールの前の風景です。地面から水が噴射するようになっていて、そこで子供が遊んでいたのですが・・・いや、なんと情けない。そう思いました。わたしは、田舎育ちです。水とは海と川で戯れました。このように人工的に、しかもかなりケチケチした量の水が突然噴射したり、止ったりするものに恐る恐る触れるのではなく、ゆったりと高いところから低いところへと流れて行く水や、寄せては返す波から水の存在を知りました。
この子たちは、いつなぜ水が出てくるのか分らない中で(当然です。そこには摂理はないのですから)、それでも自然と近づきたくて裸になって水を待っていました。休日のせいもあって、お父さんと子供連れが多くて微笑ましかったです。でも・・・会話を聞いていて暗澹としました。子供を遊ばせたい気持は沢山あるようですが、自分が濡れるのは困るので「パパも濡れるから帰ろう」と言っているのです。なんだか悲しくなりました。自然の水の流れを知ることができないだけではなく、水に濡れることさえ厭わなくてはならない。
このような光景を見ると、どうしても、わたしは自分が育った環境を思ってしまうのです。大人が率先して服を脱ぎ、水に飛び込み、いろいろを教えてくれたことです。例えば、一見穏やかに見える水でも、下には違ううねりがあることがあるので気をつけなくてはならないこと。飛び込んでも安全な場所とそうではない場所があること。それは、一見してすべてを決めてはならない、表面の下にはまた違う動きや思わぬ障害物があることもある、だからきちんと見極めてから飛び込まなくてはならない世の中と同じこと。自分たちが子供だったころに経験した楽しかったこと恐かったこと。そしてときにはカッパの話しなど(笑)。そうして、裸のままゆうゆうと衣服を肩にかけ、またはグルグル廻しながら、太陽で体を乾かしながらみんなでスイカの待つ縁側へと向かったあのころ。
すべてが「教え」でした。濡れる、飛び込む、流れる、泳ぐ、乾く、、、体中で経験しながら、大人になることを、自然の中で大人に教わりました。ところが・・ここでは、自然に流れる水さえなく・・・大人がショッピングモールの前の水を「パパ、濡れると困る!」と言っているのです。え・・水にまつわる人生観の話しはどこ??水と太陽の関係性は?わたしは、暗澹とした気分になりました。これが現代東京の「夏」 このように、先人の知恵と経験に基づく知性を積むことのない人間が増え続けることが、地球環境崩壊へ向かわせている要因のひとつなのだろうな、と感じたのでした。
キッチンにバジル(夏のハーブ)を置いているだけでも、季節が変わっているのを感じる。
一昨日は部屋の大掃除をし、少し夏模様にしました。外の緑とあいまって、気配は早すぎる夏へと突入しています。でも、今日は少し梅雨っぽくて暗くて、緑が濃くて、少し空気が湿っていていい感じです・・。
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