アフリカ開発会議が、横浜で行われている。アフリカ各国の要人が集まり、日本政府と関係性を樹立しようとしているようである。数年前にも同じような会合が東京で行われ、その場に、ある事情でわたしは居合わせた。都内の大きなホテルでレセプションが行われ、当時の小泉首相もいた。40カ国以上の大統領や大使の中に混じって、オスマン・サンコンさんという、日本に長く滞在しているギニア人の方がおり、彼とお話しした。日本のアフリカへの理解の低さを嘆いておられた。わたしも、長い間、アフリカ(西アフリカ)の文化や人々と関わりながら、日本の人たちの意識の低さをいつも感じている。
日本にとってアフリカは遠い地である。多くの人が、アフリカ=サバンナ/動物、くらいの認識があるようである。そして、内線と貧困がアフリカの代名詞になっているように感じる。それは、あまりに遠い地であるため、仕方ない気もするが、日本人の外国音痴も関わっていると思う。そして「日本が一番」の感覚がどうしてもあるように感じる。
それを顕著に感じるのが、「1日1ドルで生活しているから可哀想だ」と思うことである。最近、めずらしくアフリカ関連のニュースや話題がテレビや新聞でとりあげられているが、どこでも、この話題が出ている。アフリカは貧しいところです。1日1ドル平均で人々は暮らしているのです、と口を揃えて言っている。しかし、実はこれは、裏返して言えば、日本にいて、1日100円では生きて行けないが、アフリカでは生きて行ける、ということになることにもなり、そこにはお金でははかれない豊かさというものが存在することに、この遠い地にいてはなかなか気付かない。そして、使うお金の額で人を判断することがどれだけ失礼であるか、にも気付かない。
先日、偶然、ニュース23というニュース番組を見た。そこに、鶴田真由という、女優さんがアフリカの地を訪ねた報告が行われていた。彼女は、物にあまり恵まれず、内線で苦しんだ人たちのなかにある笑顔と、人を思いやる気持ちに胸を打たれ、日本人が失ってきたこころをそこに見た、と言っていた。わたしも彼女に賛成する。
日本には、お金もモノもあるけれど、こころが失われている。
四国を歩いていて小豆島のおじさんと出会った。60代初頭の彼がいうには、小豆島の盆踊り歌を知る人が島にいなくなっている、と言うことである。20年前までいた唄うたいのおじいさんも、踊りを知るおばあさんもみな死んでしまい、誰も知る人はいなくなってしまったそうである。「歌詞もわからんようになってしもうた・・」と涙目で言っていた。今になって後悔しているが、どうしようもない、と嘆いていた。一生懸命、金をもうけることばかりを考え、年寄りのことを振り返らなかった罰が今ふりかかっている、とおじさんは言っていた。四国遍路も世界遺産に登録したい、と願っており、日本の各地が競って世界遺産への登録を願っているようである。しかし、遺産というのは、どこかに登録されて価値が生まれるものではない。誰にも承認されなくとも、人から人へと、生活の中で伝えられてこそ、遺産である。そして、小豆島の盆踊り歌という遺産は消えたのだ。
しかし、ギニアやアフリカの人たちは脈々とその遺産を守り続けて来ている。踊りも歌もリズムも、何千年、もしかすると何万年という年月をかけて伝え続けて来ている。現在でも、伝統音楽と踊りは生活の中に密着している。世界でも珍しく、稀少な現象である。彼らにお金はない。しかし、ものを伝えるこころも、踊るこころも、太鼓のこころもある。彼らの感受性は鋭く、人の気持ちを汲み取ったり、遠くからでも気配を感じるたりすることができる。人間が本来持つ大切な能力をそのまま今でももっているのだ。日本でそのような人は少ない。また、そのような人は、残念なことに精神か体をたいてい病んでいる。電車で隣りに立つ人の気配さえ感じない人ばかりが「普通」に生きられる国である。鈍感であることこそが、力である、なんて恐ろしい逆説まで成り立つほど、その精神は病んでいる。
そんな中、1日1ドルで生活していても、美しいこころと肉体を持っている方がどれだけ豊かであるか、お金でしか幸福の基準を考えることができなくなっている国の人間は想像することができなくなっている。「1日1ドル?水も買えないじゃん。可哀想」と思うだろう。水は天からの恵みであり、本来は自販機で買うものではないということさえ忘れているかも知れない。
なにが豊かであり、なにが貧困か分らないひとたちが多くいる。
今回のアフリカ開発会議で、日本政府がアフリカ各国に「援助」をしようとしているのは、アフリカの土地に眠る膨大な天然資源が目的であることはあきらかである。ギニアにもボーキサイトを始め、金属系の資源が多く眠っている。中国は随分前からアフリカの資源に注目している。わたし自身も90年から何度もアフリカに渡っているが、この20年近くで、海外からの開発者や投資家がぐんと増えているのを目のあたりにしている。資源弱小国の日本も、その例外ではない。
その一方で、マリ共和国のドゴン族という部族の住む村は、温暖化のため、砂漠化され、人々は村を去らざるをえなくなっているそうである。ドゴン族の話しは、マリにいたという、セネガル国立舞踊団のおじさんに、昔、話しを聞いたことがある。(日本でマリ国立舞踊団の方々と踊らせていただいたこともあるが)ドゴン族の人々は、人間がどこから来たか知っている、と言っていた。詳しいことは、ここでは今回書かないが、その話しは神秘と、そして実は合理性に満ちており、彼らの儀式は大切な人類の遺産である。それが、「発展国」の人々の狂信的な生活のため、今、失われつつある。京都議定書でCO2の数値を下げることが話し合われたが、日本では、結局数値は下がってはいない。それどころか上がっているそうである。その陰で、つつましく、逞しく生き続け、人類の遺産を守り伝えて来たドゴンの人たちが、砂漠化してゆく村を追いやられ、その知識と伝統を失おうとしている。
小豆島で起きたことを、世界に広めて良いのだろうか。己の欲のため、アフリカの「開発」への「援助」をして、アフリカを日本のように、病んだところにしてよいのだろうか。
援助なんて言葉でごまかして天然資源を搾取することを考えるよりも、「1日1ドル?可哀想・・」なんて余計な同情をするよりも、まず、わたしたちは、自分たちの生活とこころを振り返ることが大切ではないか。生活への危機意識を持ち、自分の国での生活を変え始めることのほうが、自分たちの村の歌を守り、自然を振り返り、愛を取り戻すことのほうが、彼らへの本当の助けになるのではないだろうか。「己を助けるものが他を助ける」The ones who help themselves can only help others. とも言うではないか。
人類は岐路に立たされている、とますます強く感じるこの頃である。
最近のコメント