この写真は、ギニアで撮ったものです。一瞬、誰もギニアだとは思わないかも知れません。ギニア,と言えば、伝統文化だとか、西欧文化とは違う、というイメージが強いからです。これは、プールパーティと言って、ライブ(もちろん、伝統音楽ではなくヒップホップなどの現代音楽が中心。ギニアのヒップホップはめちゃくちゃカッコいい!)があったり、みんなでプール周りでHang Outする(ワイワイやる)ものです。
この写真を見るたびに思うのです。人間ってつい思い込んでしまうって。イメージを作り上げてしまうって。
「これが当たり前」「これが当然」「ギニア=伝統文化」「アフリカ=人類の源/サファリパーク」
でも、この写真が現すように、アフリカはそう単純ではありません。同じように、この世の事象はものすごく複雑で怪奇で、わたしたちはすべてを知ることなく、いえ、ほんの少しだけしか学ばずにこの世を去って行くのです。だから何度も生まれ変わっちゃうのかも知れません。でも、そのことを忘れて、つい、自分はなんでも知っている気持になり、または、知っていると思い込むことによって安心したいのもあるのでしょうけれど、それが結果的に傲慢さや差別や無関心を生んでしまうのだと思います。
ある、中近東の映画監督が言っていました。『ものごとを邪悪と神聖に分けるのはナンセンスだ。わたしは、複雑きわまりない現状に対する人間の反応を描いているのです。』
そう、人間は宇宙であり、宇宙は人間。宇宙が複雑なら人間も複雑。例えば、聖人と言われているような人が、追い込まれた状況になるといきなり鬼になることもあります。いつもは厳しく恐い人が、逆に窮地で突然優しさを現すこともあり、ずっと静かに控えめに生きていた主婦がある日、燃えるような恋をしてしまい、すべてを壊すこともあります。
占星術をやると、ひとというのはとても複雑なものだということが分ります。両親の愛情に恵まれて育っても、そのひと自身が破壊的性質を持ち、つい、なにかを壊したくなってしまうかと思えば、仕事に関しては非常に現実的で忍耐強い人もいれば、幼い頃に愛情に恵まれていなくても、前世で何度もカルマを解消してきているので理想的な愛情に恵まれる星を持っているひともいます。そして、互いの星が影響しあい、その内容はあまりに膨大でここでは書き尽くせませんが、ひとりの人間の持つ宇宙の複雑さにいつも驚嘆します。それでも、ひとはつい「自分はこんなひと」と単純に決めたくなります。
ある友人が以前「オレは濁だから」と突然言い切ったことは、前にも書きました。世の中には清と濁が両方あって・・という話しをしていたとき、この友人は、キッパリと自分は濁だ、と言い切ったのです。ひとは、清も濁も両方持っていて、それこそ、映画監督ではありませんが、見方によっては同じ現象が清であったり濁であったりすることもあるのです。ですから、きめるほうが楽ではありますがどちらとも決められないのです。それを「オレは濁だ」と決めることは、謙虚に聞こえるのですが、実は、傲慢なのです。
そのことが露呈し始めているのが現代だとわたしはこの頃感じています。この世には「いい人」とか「悪い人」はいない。この世には「これが絶対正しい」「これが絶対に間違っている」ということはない。もう、互いに指をさしあい、批判し合い、どこかに絶対的な安心を求める時代は終わろうとしている。この世は人間の狭い考えだけでは成り立ってはいない。わたしたちは神ではない。それがだんだん分ってきた。だから、混沌としているのだろう。
では、どうやってこれから生きて行くのか。なにをこころのよりどころとし、なにを目指すのか。それとも、なにも目指さないのか。
それが、課題なのではないか。
また、複雑で予測もつかないこの世の中を、不思議と未知でいっぱいなエキサイティングな世界ととらえるか、不安定さと予測不能でいっぱいな恐い世界ととらえるかで、そのひとの人生は変わってしまうのではないか。
この写真を見るたびに、自分の傲慢さと不安からくる頑さをいさめると同時に、そう思うのです。
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上記の監督の作品ではありませんが、イギリス映画の「やわらかい手」は、ひとの既成概念を壊すことと、愛のありかを見つめた素晴らしい映画だと思いました。オススメ。
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