小田実と書いて、オダ・マコトと読む、というのを幼いころに教わった。
子どもには、ちょっと怖いイメージのある「べ平連」という文字と並んでいた。
玄関の続きの三畳の間の大きな本棚でその名前を見た。
家中に本のある家だったが、他にも、大人な言葉の並んだ本が沢山、玄関から家に入るなりあった。
その、オダ・マコトが家に来る、と祖父がある日、言った。
母はいつもは適当なのに、その日は、家の中をちゃんと掃除した。
わたしも、庭と玄関の掃除をやらされた。
小田さんは、幼いわたしには、よく、家に集まるいわゆる知識人や運動家たちとそう変わらず、ただ、せっかちに見えた。
離れにあった祖父の書斎にさささっと入り、なんだかひとしきり話して、さささっと帰ったような記憶がある。
動作がせっかちな感じがしたのだ。
わたしの育った家には、いろいろなひとが集まった。
九州の知識人たちはもちろんのこと、全国からいろいろなひとが来た。
時には海外からもきた。
小田さんは、そのうちのひとりだった。
春には、門から東南の庭にかけて並んでいた満開の染井吉野に灯りをともし、座敷を明け放ち、庭と座敷に置かれた卓に、ごちそうがこぼれるほど並び、酒とタバコと談義で朝までひとびとは夜を徹した。
冬には、イノシシと豚の間の子、イノブタの鍋や、馬刺を食べながら、これまた酒を酌み交わしながら、煙った部屋で朝まで話しをしていた。
幼かったわたしにはわからない話しばかりだったけれど、にぎやかな雰囲気と、大人たちが真剣になにかを議論している様子が好きで、いつも末座でこっそり隠れて日本酒を飲みながら、その話しを聞いていた。
眠らないよう、眠らないよう、一生懸命がんばったけれどいつしか、誰かの膝の上で、大人たちの声を子守唄に眠っていた。
昨夜遅く、何気なくテレビをつけた。
なんだかすぐに眠れそうにないとき、少しだけ、テレビを見ることがある。
リビングのソファからリモコンでスイッチを押すと、テレビの画面が闇にふわりと立ち上った。
そこには、小田さんの姿が映っていた。
な〜んとなくせっかちな感じが、昔と同じまま映っていた。
小田さんは、去年亡くなった。
多くの、我が家を訪れて来たひとたちの訃報や存在をわたしはテレビや新聞で知った。
大人になる前に日本を離れたわたしは、実は、家に来ていたひとたちや、泊めてもらったり、食事を一緒にした彼らが社会的に「誰」だったかは知らなかった。
小田さんのことも、亡くなってからテレビでとりあげられるのを聞き、それで、あ〜あのせっかちなおじさんは、そういうひとだったのか・・と知ることになったのだ。
作家や、ニュースキャスターや、国会議員や、詩人や、哲学者や、作曲家や、映画監督や、政治学者や・・あぁ、あのおじさんは、おばさんは、そういうひとだったのか、とこの頃になって分って来ている。
祖父が死んだときも、訃報が各紙の一面に大きく載り、英字新聞にまで載っていた。
明治の最後の偉大な思想家、逝く
へ〜、おじいちゃんって、思想家だったのか・・・。
彼の肩書きをそのとき初めて知った。
家には、テレビ、新聞、雑誌の記者がいつもいて、いろいろテレビや新聞でみるようなひともよく家に来ていたし、逆にじいちゃんもテレビやラジオに出たり、新聞に連載を書いていたりしたから、どうも、他の家とは様子が違うな、とは思っていたが、祖父の孫である、と言われるのが嫌だった。
「前田さんのお孫さん」
そう、呼ばれるのが嫌だった。
個としての自分が、没してしまうような気がしたからだ。
わたしは、誰々さんの孫、じゃない。
わたしは、前田芳だ〜〜!
しまいに、名前を言うことにさえ、抵抗を覚えた。
自分の名前は自分でつけられたらいいな〜。
そう、思った。
思想、哲学、報道、政治、平和運動、などというものからはずっと離れて生きて来た。
家にあった、祖父の友人たちの本も、祖父の本もわたしは読まなかった。
夏目漱石や志賀直哉を読んでいた。
もちろん、赤毛のアンも、アンネの日記も読んだけど。
漱石がわたしの初恋だった。
ベ平連?
知りません、そんなもん、って感じだった。
教科書に祖父や、知りあいのおじさんの文章が載っていても「ふ〜ん」って感じで流し読んでいた。
芸術を目指したのも、性質もあったかも知れないが、そのひとつだ。
ダンスなんて、我が前田家でやるひとはいない。
お稽古ならまだしも、人前で踊るなんて・・・。
いや、お稽古するひとさえいない。
堅物一家なのだ。
じいちゃんは、じいちゃん。
家は家。
わたしは、わ・た・し。
そう思って生きて来た。
けれど、昨夜の小田さんの言葉を聞いて愕然とした。
「阪神淡路大震災は、天災ではなく、人災だった」
「ツインタワーにつっこむ飛行機を見て、特攻隊をすぐに思い浮かべた」
両方ともわたしがずっと思っていたことで、ずっと、言っていたことだった。
特に、9.11のことは、誰もどうして言わないのだろう、と不思議に思っていた。
以前に、ある週刊誌で9.11の計画に関わったアルカイダ幹部の一人が、日本に昔住んでいて、爆発物の作り方などを学んでいたことが書かれていた。
彼が、日本で多くを学んで帰ったことが記されていた。
その記事を読んですぐに思った。
このひとが学んだのは、技術的なこともあっただろうが、もしかすると一番大きかったのは「自爆テロ」だったんじゃないだろうか。
このひとは、飛行機で敵地に突っ込んで自爆するというやり方があることを日本で学んで帰ったんだな。
直感的に思った。
日本の負の歴史が他国に与えた影響に、なんとも言えない複雑な気持ちでその記事を読み、同時に、それがどこにも書かれていないことと、誰もそれを言っていないのを不思議に思っていた。
ところが、小田さんが言っていた。
「特攻隊をすぐに思い浮かべた」
ほかに言っていることも、わたしには自然だった。
懐かしくもさえあった。
思った。
幼い頃のわたしは、眠りながら、彼らの話しを聞いていたのだ、と。
分らない言葉ばかりだったはずなのに、どこかで意味を知っていたのだ、と。
そして、気付いたら、それがわたしの血となり肉となっていたのだ、と。
ひとりで生きて来たつもりでいたけれど、そうではなかった、と。
わたしは、これからも踊りを続けて行く。
わたしは、これからも音楽を続けて行く。
わたしは、これからも写真を撮り続けて行く。
思想家になることはないだろう。
政治活動をすることもないだろう。
けれど、血は、争えない。
夜中にひとりで小田さんの言葉に相づちを打つ自分を、わたしは笑った。
おじいちゃんの孫であること、おじいちゃんと一緒の布団で寝て育ったこと、寝物語に多くの大人の話しを聞いて育ったこと、沢山のひとに沢山のおみやげをもらったこと。
感謝しよう。
そう、前田芳の芳も、祖父につけてもらった名前なのだから。
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