このところ涼しかったのに、また、暑くなって、ダラ〜〜〜ッとしています。
今週はめまぐるしく忙しかったので疲れが出ているのかもしれません。
昨夜、映画を家でみてキリキリしていた頭を少し緩めたら、緩みっぱなしで、今日はな〜んにもする気になれません。
新聞を隅から隅まで読んだり、ソファでぼや〜っと来週のこと考えたり、昨日見た映画のことを考えたりして過ごしました。
それで、珍しく長いブログを一日に2つも書こうとしています。
そう、朝日新聞の昨日の朝刊に目をひいた記事がふたつあったのです。
ひとつは、文化欄の倉本聰というテレビの脚本家の言葉で、もうひとつは生活欄の「プレーパーク」のお話。
このふたつ、欄も違うし、まったく関係性がないように一見すると思える記事なのですが、深い繋がりがあるな〜と思ったのです。
倉本聰さんは、多くのひとがご存知のように「北の国から」(蛍ちゃ〜ん!)という人気番組の脚本を書かれた方で、30年以上前から北海道に移り住み、多くのこころに問いかけて来る作品を書いて来られた方です。
この方が、私財をなげうって、脚本家や役者を育てる「富良野塾」というのをやっていらっしゃるそうですが、再来年で閉じるそうです。
良い人材が育っても、それを受け止められるテレビ業界がないから、というのが主な理由だそうです。
「疲れた。テレビのためにライターや俳優を育てたが、投げた球をテレビは受け止めてくれない。」
「僕らテレビ創世記からの人間は知恵を使った。今は知識だけで、程度の低いギャハハ番組ばかり。公共の電波で悪影響を及ぼすのは犯罪。広く浅く、面積だけを稼ぐ視聴率ではなく、質を深さを測る方法論を考えよと言い続けたが、変わらない」
こうおっしゃっています。
じつは、今朝ベッドの中でいろいろ考えていました。
そう、朝からだら〜んとしていたのです。
考えていたのは、わたしは誰になにをどのように伝えたいのか、ということでした。
なので、おぉ、なんか同じようなこと言っているひとがいるな、とちょっと嬉しくなったのです。
音楽や踊りも、テレビだけに限らず同じだな〜と思っていたからです。
みんなやたらと知識はあるけれど、魂のある演奏をしないな、と。
見た目が恰好いいひとは沢山いるけれど、こころの伝わる歌を歌うひともあまりいないな。
ダンスも器用にステップは覚えるけれど、本当の「ダンス」をできるひとがいない・・・。
ダンスとスポーツ、ダンスと受験勉強は違うんだけれどな・・・。
それなのに、プロのような顔をしてステージに立つひとたちを、倉本さんがギャハハ番組を犯罪と言ったように、わたしも、本当のアフリカンダンスを侮辱し衰退させるきっかけを作り、観衆をバカにしている犯罪行為だと思ってきたのです。
そういえば、写真家のアラーキーも「最近は、本当の写真を撮るヤツがいないね」と、写真雑誌で言っていたけれど、同じ感じだな、と。
このところ特に、いろいろな写真家の写真を見ていますが、ダンスと同じく、そこには、危険な匂いも魂の叫びも危うさも感動もないのです。
なんか、みんな「いい子」であることや「いいこと」や「恰好いいこと」に捕われていて、本質的なところからは逃げている感じなのです。
それでも、小器用に仕事はして、お金儲けや、テクニックを駆使してひとに見せることには長けているのです。
これは、ダンスも音楽もテレビも同じです。
そして、見る方も、その犯罪行為に慣らされ、表面的な格好よさに踊っているので、見る目が養われてないのです。
もし、この国で、わたしが舞台に立てるようになったら、本当に見て欲しいのは、もう死を目前にした年よりか、先入観のない子どもがいいな、と思ったのです。
死を目の前にすると、人間は表面的な格好よさとか、それこそ、視聴率がかせげるギャハハ感とかではなく、本当の本当の良さを求めるものだからです。
そして子どもには、まだ、みんなが決めたルールの上の格好よさなんて関係ない。
そういう純粋なところでやるからこそ、冥利であり、こちらも鍛えられるな〜、と。
あ〜、だからといって、偽善の仮面をつけた老人ホームの慰問がしたいわけでもないしな〜、とか思っていたのです。
倉本聰さんのコメントを読んで、そうか、同じように、現在の風潮を嘆いているひとがいるんだな〜と、暗澹としながらも安心したのでした。
その次に、もう読むところがなくなって「生活欄」を読んだら、そこに、ルールや「やってはいけないこと」、のない、プレーパークというのが日本中に広がっている、という記事を見つけました。
それによると、今の子どもたちは、木登りさえ許されないそうで、やっちゃいけないことが沢山あるんだそうです。
決まったスポーツか、テレビゲームが「遊び」の中心で、子どもたちはすぐに飽きるそうです。
けれど、このプレーパーク(なぜか英語)は、ただのなんにもない野原で、大人が何人かいるだけで、あとは、自分たちで、泥遊びをしたり、樹に登ったり、水遊びをしたりするそうです。
これがいま全国に230カ所もあるそうです。
子どもたちは、飽きずに活き活きと遊ぶそうです。
アソビ、というのは、余裕という意味もあります。
アソビのある布、というと、残りの余裕のある布という意味です。
なので、最初からきっちりルールのあるスポーツや、隙間なく人間が作り上げたテレビゲームというのは、実はある種の「活動」ではあっても、遊びではないのです。
そこには、余裕もアソビもないからです。
遊びという、なにもルールもなく、先行きの予測のつかない、無駄な活動にこそ、実は、倉本聰さんがおっしゃる「知恵」が隠れているのです。
知恵というのは、知識と違って、考えることと体験すること、を繰り返して生まれるものだからです。
鉄棒も、ブランコも、なにもないただの原っぱに、自分の遊びを考え出すことによって人間は知恵の力が生まれるのです。
もし、ここに書いてある記事が本当で、子どもたちが、外で遊び、ヒミツの基地を作ったり、木に登ったり、あるいは落ちたり、川で遊んだり、林で駆け回って遊んでいなかったとしたら、良い脚本を書けるひとや、番組を作るひとが生まれないのは当然のことだろう、と思います。
想像力というのは、知恵と同じく、体験から生まれるものだからです。
良いダンサーが生まれにくいのも当然です。
なんと言っても、足腰が強いのがダンサーの一番の条件ですし、ダンサーは芸術家なので、想像力が土台となる表現力が必須だからです。
日本はこのままでは危ない、とよく言いますが、本当にこのままでは滅亡は近いな、と感じます。
人間は機械でもなく、いわゆる野生動物でもないので、アソビが必要です。
子どもがこころから羽を伸ばして遊べない国、大人が芸術という本気の遊びをこころゆくまで追求でき、それを鑑賞できる能力をもつ人間のいない国は、生命力が弱まるばかりだからです。
倉本聰さんはもう70才を超えていらっしゃるそうです。
この10月から放送される新作の「風のガーデン」は人生の最期についてを書かれたそうです。
ご自身も、これが最後の連続ドラマの脚本になるかも知れない、とおっしゃっています。
多くの、知恵ある、そして本当の格好よさを知っている大人たちが亡くなり始めています。
久世光彦さんという脚本家も亡くなりましたし、アフリカンダンス界の巨匠のキモコ・サノ氏も亡くなりました。
子どもたちに遊ぶことを許すと同時に、この浅はかな現状に、怒りと無念を胸に亡くなり始めている先輩方の本当のこころである、愛と希望と知恵と鍛え抜かれた知識を継げるよう、精進しなくてはならないな、と、改めて思ったのでした。
今日は新月です。
クリスタルを浄化し、また映画を見ようと思います。
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